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[ 神社・お寺 ]

2022.03.15

松應寺 ―人々の思いに応える場所―

能見山瑞雲院松應寺は、徳川家康公が創建した浄土宗の寺院。家康公の父、松平広忠公の御廟所として、幕府から手厚く保護され、家康公をはじめ、二代将軍秀忠、三代将軍家光も参詣した、近隣でも別格の寺院です。

今回の記事では、松應寺の歴史、そして、近年注目を浴びる松應寺横丁の成り立ちを見つめてみましょう。


※松應寺横丁の住宅には一般の民家も含まれています。参拝の際は民家(看板の出てない建物)は撮影しないように願います。

※記事中の写真は、特別に許可を取って撮影されたものです。
※2022年3月現在、松平広忠公御廟所は改修工事中で見学することはできません。2022年中には一般公開が予定されています。

撮影 取材協力:けろっと氏

松平広忠公の死と家康公の願い

松平広忠公の死と家康公の願い

家康公の父・松平広忠は、天文18(1549年)、24歳のとき急死しました。病死とも暗殺とも言われていますが、史料によりその記述は様々です。
広忠公は、能見ヶ原に埋葬されました。〜ヶ原とは、人のあまり住まない平野を指す言葉。当時のこの地は、人里離れた静かな場所だったのでしょうか。
父の早い死を、8歳の竹千代少年、後の家康公が知ったのは、人質に出されていた尾張の地でした。その後、人質交換で岡崎に戻ったわずかな時間に、家康公は父の墓に駆けつけ、自らの手で松の若木を植えました。先行きの不安な松平家の繁栄を祈念してのことでしょう。

やがて、19歳になった家康公が、三河に帰還、念願の岡崎入城を果たします。
十年ぶりに父の墓に参じた家康公が見たものは、少年の時に植えた松が大きく育ち、枝を広げた様でした。
「この松は、我が願いに応じる松」
家康公は感激して、父の埋葬地であるこの地に、新たに創建した寺に、『松應寺』と名付けたのです(『應』は『応』の旧字体)。

松應寺の松平広忠公御廟所とお手植えの松

松應寺の松平広忠公御廟所とお手植えの松

松應寺の本堂の北東にある、松平広忠公御廟所には、墓石はありません。切石で囲まれた埋葬地すべてが、広忠公の墓であるからです。石で出来た鳥居や玉垣などは、年号や寄進者が刻まれていないことから、創建か改修時に家康公本人が整備させたものと推測されます。
その外を囲う土塀には、五本の白線が入っています。これは当時、最高の格式を持つ寺院にしか許されていないものでした。また、木造の門は後述する空襲の火災を免れた、江戸初期に建造された貴重な木造建造物です。
いわゆる戦国時代の武将の墓としては異例の規模、最高の格式を持った墓は、家康公の、父への尊敬と愛情が最大限に込められていると感じます。

(初代のお手植えの松は、画像右のクスノキよりもずっと大きかった)

そして、神君お手植えの松は、この大きな墓のシンボルとなり、神聖視されました。
松は18mもの高さになり、張り出した根に合わせて、基壇も東に延長されたため、墓の東西は左右非対称となりました。
江戸時代には、御廟所の改修のために、この松の枝を切った責任を取るため、当時の住職が追放された事例もあるというから驚きです。
当然、剪定もされることなく、うっそうと繁茂した松の巨木は、怖さすら感じる迫力だったそうです。廟所の右奥にあるクスノキの木が20m程度なのですが、その木よりもずっと大きく感じたと聞きます。
そんな畏敬をもって守られていた松でしたが、平成3年、マツクイムシの被害で枯れてしまい、平成22年、現在の二代目の松に代替わりしました。

松應寺横丁のPASSERELLEでは、このお手植えの松をイメージした家康公スイーツ『松の実クッキー』を販売しています。

PASSERELLE

将軍も訪れた御成道

将軍も訪れた御成道

家康公が将軍となった江戸時代には、その父の菩提寺である松應寺は幕府の庇護を受け、塔頭(関連する寺院)を八寺も持つ堂々たる寺院でした。
家康公をはじめ、上洛の途中の二代将軍秀忠、三代将軍家光、幕末には14代将軍家茂が、父祖の廟所を参拝しています。

東海道(二十七曲、現在の御旗公園南端付近)から北は松應寺の寺域で、将軍も通るその参道は整備され、『御成道』と呼ばれていました。
岡崎城の外周である惣堀には橋までかけられ、三門(現在は消失)からは岡崎城天守が見えたと言いますから、失われたもうひとつのビスタラインとも言える特別な道でした。
現代では天守を見ることは叶いませんが、その手前のタワーマンションまではまっすぐに見通すことができます。そこから見える岡崎の景色はどんなものだったのでしょうか。

空襲で燃えた寺と集まった人々

空襲で燃えた寺と集まった人々

そんな松應寺も、明治になり寺域を削られて、昭和20年の岡崎空襲。本堂や位牌を収めた御霊屋は焼け落ちました。焼夷弾の直撃で破損した石造りの水鉢が、衝撃の激しさを物語っています。
激しい炎の中で、青銅製の鐘までも真っ赤に焼け、水をかけると割れるからとその熱が収まるまで三日三晩も待ったと言います。
幕府の威信をかけて造営された荘厳な伽藍は、こうして焼け落ちました。
広忠公の御廟所と松、少し離れた太子堂だけは類焼を免れたのは、不幸中の幸いと言って良いのでしょうか。

松應寺の周囲に、それでも空襲で焼け出された人々が集まったのは、「人が集まる場所」という認識が市民にあったのでしょう。
人が集まる場所には商業が生まれ、寺の境内でヤミ市が開かれるようになりました。そして、許可なく境内に家屋が建ちはじめます。
当時の御住職は「苦しい生活を強いられた人々を、無情に追い出せない」と、その状況を黙認。こうして、松應寺の境内に、新たな集落が産まれました。

花街としての繁栄と衰退『松應寺横丁』の誕生

花街としての繁栄と衰退『松應寺横丁』の誕生

松應寺の境内にできた町は、戦後経済の回復に伴い姿を変え、昭和28年頃には、象徴的な木造アーケードが築かれたそうです。
細い通りごとに、参道商店街、なかみせ通り、呉服通りと名付けられ、菓子屋、料理屋、呉服屋、生花店、そして高級料亭や芸者を呼ぶための店などが軒を並べました。
花街遊びの隠語として、「しょうおんじ(松應寺のなまり)にお参りに行く」と言われた頃もあるそうです。有数の格式を持つ松應寺の敷地内に、夜の街が根付いたのです。

そんな華やかな時期も過ぎると、老朽化する建物の再建が難しいことから、空き家化が急速に進みました。
暗くて怖い、廃墟のようになったまちを嘆く人々が集まり、2011年、松應寺横丁まちづくり協議会が発足。活用を望む人たちへの建物の貸出が始まりました。
『松應寺横丁』とは、その頃に名付けられたのです。

空き店舗を借り受けた店主は、自らの手で改装も手掛ける決まり。洋菓子店や食堂や雑貨屋、きもの店など、個性的な店舗が出店しています。

ひとの願いに応じるまち

ひとの願いに応じるまち

映画の一場面のようなどこか非現実的なまちなみの美は、あいちトリエンナーレ2013の会場となったことで注目を集め、建て替えが出来なかった事が故に残った戦後の雰囲気が、逆に『レトロな町並み』と評価されることになりました。
今回の取材中でも、若いカップルや親子連れ、散歩中の紳士など、広い層、広い世代の人たちが思い思いに楽しむ様を拝見しています。

ノスタルジックとは言いますが、松應寺とそのまちなみは、時々の人々にあわせ、そのあり様を変えて来ました。現在の姿は、江戸時代からいままでにない、全く新しいまちの姿であり、それを支えているのは、まちに対する様々な人の愛情です。
四月中旬には、御廟所の手前の藤棚に白藤が咲き乱れ、珍しい緑色の桜『御衣黄桜』も花をつけます。
御廟所の工事も、今年中には終わることでしょう。
歴史、御朱印、まち歩き、ショッピング……
家康公の父への強い思いからはじまった松應寺はいま、広い志向、広い層、広い世代を受け入れて願いに応じてくれる、日常と非日常が両立した穏やかで明るいまちになっています。

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