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2023.03.17

【どうする家康★記念連載】第八回 家康公の改名の履歴 ーそして徳川家康になるー

『どうする家康★記念連載』では、令和5年度大河ドラマの放送を記念して、徳川家康公の生誕地である岡崎の家康公と三河武士ゆかりのエピソードを連載していきます。

その生涯において、幾度も名を変えた家康公。
我々の馴染みの深い『徳川家康』になるまでの経緯を辿ってみましょう。


現代に生まれた我々は、ほぼ一生、名前が変わることはありません。
もちろん、芸名や雅号、ペンネーム、ハンドルネーム、SNSのアカウント名、オンラインゲームのキャラクター名など、現代に生きる我々にも、様々な別名を持つ機会があります。
かつての日本人は、情勢や人間関係など様々な理由で名が変わることがありました。
我らが徳川家康公も、少年期から青年期に至るまで、何度もその名を変えています。


徳川家康公は、天文11年12月26日に誕生しました。
翌年の卯年に生まれたという文書も一通だけ存在しますが、これについては、より進んだ研究を待たなくてはならず、現状では『寅年寅の日寅の刻に誕生した』という公式記録に従うのが良いでしょう。

【まとめ記事】徳川家康公の物語 (家康公の生誕地・愛知県岡崎市)

幼名 竹千代

幼名 竹千代

家康公の幼名は『竹千代』。
生まれて数日で『本名』が届けられる現代人と違い、この頃の人は元服、つまり成人するとき初めて本名が与えられます。
生まれてすぐにつける名は『幼名』といい、本名を得るまでの仮の名でもあります。


大樹寺を創建した松平家の四代親忠をはじめ、五代長忠、六代信忠、七代清康の幼名が『竹千代』だったと言われているので、代々引き継いだ大切な名だったのでしょう。
この名の由来には諸説あり、はっきりしたことはわかりませんが、松平家の松と竹はとても縁起の良い組み合わせですね。

家康公は、のちに誕生する長男の信康や、孫にあたる三代将軍家光にも、竹千代という幼名を与えています。

岡崎城の遺構である現在の岡崎公園には、ここで生誕した竹千代の石像がたくさんありますが、このなかでおそらく最も古いものは、五万石藤の北西向かいに立つ竹千代像で、すぐ隣の橋もまた、竹千代橋と名付けられています。

松平元信を名乗る

松平元信を名乗る

家康公は天文23年(1555)、14歳の時、静岡の浅間神社で元服の式をあげます。
この際に、諱(いみな)という本名にあたる名は『元信』とされました。
元康の『元』の字は主君にあたる『今川義元』から一字を頂いたもので、誰にでも許されるものではない栄誉でした。
今川義元が元信にかける期待と信頼の証であったでしょうし、元信の今川義元への感謝と尊敬はとても高まったものでしょう。
こうして『松平元信』という武将になります。
この時点では我々の知る『徳川家康』とは、まだ一文字も一致していませんね。

次郎三郎とは

ところで、明治時代より前の日本では、本名である諱(いみな)は尊いものとして、気安く使わず、普段使いのための通称、仮名(けみょう)を別に持っています。
家康公の仮名は『次郎三郎』。
これは、松平家の初代・親氏が松平郷にもともとあった松平家に婿入りしたため、松平郷松平家は『太郎左衛門』、親氏の系統は『次郎』と名乗り、さらに4代親忠の頃に分家する際に、親忠が三男だったため、『次郎三郎』と名乗り、当主として代々継承された名のようです。

ドラマ上で、親しい関係性の人物が家康公の前で直接話をするとき、諱の家康と呼ばずに、「殿」「次郎三郎さま」などと呼ぶのは、時代考証を反映したとても良い演出と受け取ることができます。
本多忠勝のことを「平八郎」、榊原康政のことを「小平太」と呼ぶのも、同じく諱呼びを避けた丁寧な呼び方です。
名前ひとつとっても、時代によってさまざまな価値観があるのです。

元康、そして松平 家康に

元康、そして松平 家康に

それから一年後、松平元信は名を改めます。
理由ははっきりしませんが、もしかしたら、同じ今川方に岡部元信という同名の武将がいたのも関係するかもしれません。

新たな名は『元康』。
祖父である松平七代、清康の一字を取ったと推測されます。
これより『松平元康』を名乗ることとなります。
現在岡崎公園にある『松平元康像』はこの元康を名乗っていた19歳、永禄5年大高城兵糧入れののち、今川義元の討死をうけて、十年ぶりに岡崎に帰還した時の姿です。


永禄6年(1563)、松平家は織田信長と同盟を結びます。この頃、名を『家康』と改めました。 義元から与えられた『元』の字を使わないことで、長らく主従関係にあった今川家からの決別を意昧しました。
『家』を選んだ理由は、先祖である八幡太郎義家からと推測されますが、はっきりしません。
これより亡くなるまで、家康公は『家康』の名を使い続けました。

三河平定と『三河守』を巡る経緯

三河平定と『三河守』を巡る経緯

永禄9年(1566)、25歳になった家康公は、東西三河を平定。
この頃、松平家は権威として、『三河守』(みかわのかみ)の任官を望みます。しかし、その頃の京は、足利義輝が暗殺され将軍不在の混乱した時期。新田源氏として思うように任官が認められませんでした。
そこで、京都誓願寺の51世住職を務め、三河に下向していた泰翁慶岳に助けを求め、泰翁は京での人脈を通じて、関白・近衛前久などへの橋渡しをしました。

その尽力に感謝した家康公は、のちに諏訪明神の傍らに、泰翁のための寺院を建立しました。これが、梅園町の誓願寺(諏訪山泰翁院)です。岡崎空襲で、誓願寺の伽藍はすべて無に帰してしまいましたが、境内の広さがかつての権威を物語っています。
境内には、かつて竹千代が諏訪明神で弓の練習をしたときに腰かけたという『虎石』がひっそりと残されています。

徳川への改姓と新田源氏への思い

徳川への改姓と新田源氏への思い

同年末、藤原氏の代表者である近衛前久の斡旋を受けるため、徳川へ改姓をします。これにより、家康公の家系のみが徳川の姓を名のることとなりました。そして、晴れて朝廷より、従五位下三河守への叙任任官を受けます。
三河守は、かつての織田信秀(信長の父)や今川義元も名乗った官職で、これにより、家康公が三河の主として名実ともに確立したのです。
三河守、『徳川家康』の誕生です。


叙任に至る経緯で、藤原氏を自称することとなった家康公ですが、先祖である世良田氏・新田源氏を起源とする思いはとても強かったようです。

代々の岡崎城主の産土神として崇敬された新田白山神社(康生町)は、この永禄9年(1566)に、徳川家康公が源氏である新田氏ゆかりの地である上野国の新田より勧請したといいます、はるか遠い祖先、新田源氏の神を、自らが守る三河岡崎の地に、わざわざ請いお招きしたのです。

そして 徳川家康 となる

そして 徳川家康 となる

天文10 1歳 生誕 幼名は竹千代
天文23 14歳 元服 松平 元信 と名のる
天文24 15歳    松平 元康 に改名
永禄6 22歳    松平 家康 に改名
永禄9 25歳    徳川 家康 に改姓 三河守を任官


その波乱万丈の幼年から青年期を物語るように、家康公は幾度も名を変え、25歳にして我々の知る『徳川家康』となりました。

東岡崎駅のペデストリアンデッキに佇む、日本最大級の家康公像は、この『徳川家康』となったばかりの25歳をイメージして造形された、若き家康公の姿です。
その武勇から『海道一の弓取り』『馬上の将』など賞賛され、戦国大名として肩を並べた徳川家康は、いよいよ天下への道を歩み始めるのです。

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文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。

写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterで活動中。

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