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[ 歴史・石碑 ]
2023.08.28
【どうする家康★記念連載】第十一回 石川数正 信仰と忠義とそして離反
大河ドラマ『どうする家康』の主要人物として、一話から登場する三河武士、石川数正。
家康公の幼いころから側近く仕え、寡黙で厳しく忠誠心の強い人物に描かれています。
この石川数正という人は、徳川から『出奔』したことで有名です。
家康公の右腕的な重臣でありながら、徳川家を裏切り、当時対立関係にあった豊臣家の家臣となりました。
彼の出奔をどうとらえるか、史実上の石川氏と数正の足取りを追ってみましょう。
三河石川一族は、現在の愛知県安城市小川町付近を拠点として、徳川の家臣の最古参、安祥譜代七家のひとつに数えられます。
石川一族はその祖先を『浄土真宗を布教する蓮如上人に従って三河にやって来た』と伝承しています。
それ以前より三河守護である一色氏被官の国人領主という説もあるのですが、ともあれ、石川一族は三河の浄土真宗と深く結びつき、真宗門徒の三河武士代表といえる存在でした。
三河三か寺のひとつ、本證寺(安城市)に残る門徒連判状の筆頭には、数正の祖父、石川忠成(清兼)の署名があり、また、連署された115名の内33名が石川姓であったことからも、真宗への帰依と影響力が伺えます。
祖父の石川忠成は別名を清兼といい、岡崎の五奉行として、松平家の領土経営や財政事務を担当する重鎮でした。
家康公が誕生した際には、酒井正親とともに誕生の儀式を務める姿が、東照社縁起絵巻にも描かれていて、石川と酒井は家康公の父、広忠を支える両翼だったことが推測できます。
また忠成の妻は家康公の生母・於大の姉にあたる妙西尼(芳春院・妙春尼)で、石川氏と家康公とは縁戚関係にあたる近しい存在でした。
竹千代とともにある数正
石川数正は天文二年(1533)に、小川(安城市)で誕生したとされ、記録上では受領名の『伯耆守』などと記されることが多くなります。
天文18年(1543)、17歳の時には、竹千代(のちの家康公)に付き従い、ともに駿府の今川氏のもとへ赴きます。幼い竹千代にとって、10歳あまり歳上の数正は頼れる兄のような存在だったのでしょうか。
今川義元が桶狭間の戦いに破れた永禄三年(1560)、命からがら家康公とともに岡崎に帰還、今川家から独立したばかりの松平家の経営を支える立場となりました。
数正は、戦国武将としての武功も当然あるのですが、特筆すべきは、外交・交渉能力です。
その才能が発揮されたのは、永禄5年(1562)。家康公が今川から離反する際、敵方である駿府に残したままの家康公の嫡男・竹千代(のちの信康)を助けるため、今川の重鎮・鵜殿長照の子を生きたまま捕えて、駿府へと向かい今川方と交渉。困難な状況下から、人質交換というかたちで無事に竹千代を取り戻しました。
『三河物語』には、若君を自分の馬に乗せて、誇らしげに岡崎に戻る数正と、それを歓迎する三河の民の姿が活き活きと描かれています。
三河一向一揆と土呂八幡宮の再建
永禄7年、家康公の三大危機と言われる三河一向一揆が勃発。
一向宗(浄土真宗の門徒)が、反家康公勢力を巻き込んで反乱を起こしました。
阿弥陀仏か家康公か。信仰か忠義か。
三河の家臣たちが真っ二つに分かれる中、数正は、三河真宗の代表者的な石川氏の一員でありながら、改宗までして、家康公側に味方。門徒側についた一族を敵に回しながらも、家康公を勝利に導きました。
三河一向一揆の収束後、家康公は一向宗の拠点のひとつ、本宗寺の近くにあった土呂八幡宮の再建を数正に命じます。
土呂には八幡宮とともに土呂城という城があり、石川一族の勢力下だったのですが、一揆の戦火でともに焼け落ちました。
家康公は、数正に土呂八幡宮を再建させることで、土呂の地で真宗門徒が再び蜂起しないように監視する役目を負わせたのかもしれません。
数正が再興した土呂八幡宮は、江戸時代初期に黒柳寿学の手により美しい社殿が造営されて、現在は本殿が国の重要文化財に指定されています。
若き信康の死
徳川家が尾張の織田信長と同盟して東へ領土拡大、甲斐の武田家と戦っていた天正7年(1579)9月15日。
遠州掛川城にて、家康公の嫡男、信康が自刃。享年21歳、数正が全てをかけて取り戻した若君は、命を落としました。
織田家に送られ検分された信康の首は、三河に送り返され、信康ゆかりの根石原観音堂に葬られました。
そして、天正 8年(1580)その霊を菅生八幡に合祀し、若宮八幡宮の神として祀ったのは、石川数正だったと伝えられます。
かつて自らが救い出した若君の早すぎる死を、数正はどのように受け止めたのでしょうか。若宮八幡宮の本殿の側には、信康の首塚があり、訪れた方々が祈りを捧げています。
信康が亡くなった天正7年以降、数正は城代として岡崎城を守る役目につきます。
武田氏滅亡から本能寺の変と、時世の混乱が激しいこの時期、数正は徳川の領国となった美濃、信濃方面をとりまとめ、徳川の西を守る武将となりました。領国経営・外交を引き続き担当します。
羽柴家の『取次』役として
天正11年(1583年)羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)への戦勝祝いとして、天下の大名物として名高い『初花』の茶入を贈った使者が数正だったことが記録に残されています。
数正は、信長亡き後、旧織田家のトップとなった羽柴秀吉の『取次』、外交窓口役目を担ったのです。
そして、徳川家と羽柴家の関係は急速に悪化、天正12年の小牧長久手の戦いの後、徳川は、戦いに勝利しながら政治的に敗北するという厳しい立場に置かれます。
そんな中、数正は取次として、両家の和睦のためぎりぎりの交渉に奔走しました。
天正12年12月には、秀吉方への養子として差し出された家康公の次男、於義丸(のちの結城秀康)に自分の息子たちを伴として、自らが護衛して大坂まで送り出しました。
かつて、駿府に人質として送られた家康公の側近くに仕えた経験から、同じように人質同然に敵地に赴く於義丸を支える役を、自らの息子たちに望んだのかもしれません。
そして、関白に任官された羽柴秀吉と、徳川家の緊張が深まり、まもなく再び戦いが起きようかという天正13年11月13日、石川数正は突然、徳川家から出奔。
妻子や、岡崎に滞在していた信州小笠原家の人質を引き連れて、秀吉方の武将となりました。
これは、徳川の家臣の中でも異例のことです。
三河一向一揆以降、家康公に仕えた家臣が敵方に寝返ることはほぼ無かったため、石川数正は『裏切りの武将』として強く印象づけられました。
数正は、自らの出奔の理由を残さなかったため、その背景や思いは謎のままです。
ただ、その直前に、徳川から秀吉方へ新たに人質を送る件が徳川家中で反対されたこと、それについて秀吉方が「徳川は嘘ばかりつく」など不満に思っていた事が当時の文書に残されていて、直接対決を望みつつある両家の板ばさみとなった数正の苦悩と行き詰まりが想像できます。
家康公の右腕として、誰よりも徳川家の内情を知る石川数正が敵方についたことで、徳川家は軍事的にも不利となりました。
信州上田城で真田昌幸親子と合戦していた部隊もこれを受けて一時撤退することになり、第一次上田合戦は徳川の敗北という不名誉を後世まで引きずることになります。
徳川家中では軍政を改め、いつ攻めて来るかも分からない秀吉方に警戒をしつつも、その不安から次第に戦いを避ける空気に変わっていきます。
そして数正の出奔後、豊臣と姓を改めた太閤・秀吉方からの交渉も和解路線に転じました。約1年にわたる交渉の末、天正14年(1586年)10月27日、家康公は大坂城において秀吉に臣従することとなります。
石川数正の出奔は、家臣をこよなく信頼する家康公に大きな衝撃を与えましたが、同時に、両者の直接対決となる戦争を止めるきっかけのひとつとなったと見ることもできるでしょう。
数正の死と松本城
小牧長久手の戦いのあった前年の天正11年には、50年に一度という規模の大雨で、三河の農地が大打撃を受けたという記録があります。
また、数正が出奔した天正13年には、近畿から中部を襲ったマグニチュード8クラスの『天正大地震』が秀吉の領地を直撃しました。
未曾有の災害に苦しむ民衆にとって、ひとつの大きな戦いがなくなったことは僥倖だったと私は感じます。
豊臣家中での石川数正の行動は、ほとんど記録に残されていません。
名を吉輝と変え、5年後の天正18年に信濃の筑摩・安曇八万石を与えられると、松本城主として、城の普請や城下町建設に着手しました。
それから4年後の文禄元年(1592)12月、京にて数正の葬礼が記録されていて、この年に京で亡くなったと推測されています。
墓所は領地だった信州松本の他に、岡崎市美合町の本宗寺にもあり、三河真宗を再興させた叔母の妙西尼の側に弔われています。
中途だった築城や城下町建設は、息子の三長(石川康長)に引き継がれ、親子二代で完成された松本城は、美しい国宝天守として、いまも日本人の心の拠り所となっています。
そして、石川氏の後に松本城に入城したのは、かつて数正とともに岡崎を出奔した小笠原秀政。その妻となった女性は、信康の遺児・登久姫だったのです。
家康公に最も忠義を捧げながら、突如反逆した武将。
人々の興味に反して、残された史料の少なさは、没年すらあやふやで、知ろうとすればするほど、その実像が離れていくような印象です。
だからこそ石川数正という存在は、とてつもなく魅力的なのでしょう。
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詳細
文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。
写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterを中心に活動中。