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[ 歴史・石碑 ]

2024.02.14

【徳川四天王物語番外編】徳川と真田の架け橋となった姫「稲姫」

 女武者や戦乙女は、往古から人々の憧れですが、日本の歴史上で、記録に残された『戦う姫』に、稲姫……またの名を小松姫・小松殿と呼ばれた女性がいます。
 いわゆる戦国時代に徳川四天王のひとり、本多忠勝の長女として生を受け、真田幸村の兄・信繁の正室として信州真田家に嫁ぎ、甲冑を身にまとった美しい姿の肖像画が残された姫君なのです。

 戦国時代に実在した戦乙女というイメージから、稲姫は多くの歴史ファンに愛され、多くの小説やゲーム、映像作品に登場、大河ドラマでも、『真田丸』では吉田羊さんが、昨年の『どうする家康』では鳴海唯さんが演じられてきました。

 そして、岡崎が誇る武将隊・『グレート家康公【葵】武将隊』の紅一点として、永らく岡崎城を守ってきた稲姫さまが、今春出立され、天に戻られます。戦国女性が大好きな私としてはこんなに寂しい出来事はないのですが、これを機会として、稲姫の物語を振り返ってみたいと思います。

(岡崎市大和町の妙源寺には、忠勝の母が寄進した記録が残っている。重要文化財である柳堂は、忠勝がこの寺に赴いた頃から残る建築物)

 稲姫は、徳川四天王のひとり、本多忠勝の初めての子供として生を受けました。母は忠勝の側室で、名は『乙女』とも伝えられています。
『大和町史』には、忠勝の母が町内の妙源寺にたびたび寄進をし、幼少期の忠勝も勉学のために妙源寺(岡崎市大和町)を訪れた。そこで後に稲姫の母となる乙女と出会った……とありますが、はっきりしたことはわかりません。
 ともあれ、戦国最強の三河武士の長女として稲姫はすくすくと育ち、家康公の養女として、あの真田幸村(信繁)の兄、真田信之に嫁ぎました。
 徳川家が、信州の要・真田家と争わないための、いわゆる政略結婚でした。

 稲姫の最も有名なエピソードは、慶長五年(1600)沼田城を守った逸話です。
 稲姫は二十歳代。前年に次男を出産したばかりの頃です。
 稲姫の夫・真田信之は、信州の沼田城(現在の群馬県沼田市)の城主でした。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの直前、石田三成の挙兵により、豊臣恩顧の武将は、徳川方の東軍につくか、石田三成側の西軍につくかの選択を迫られます。
 『犬伏の別れ』と呼ばれる話し合いの後、父である真田昌幸と次男、真田信繁(幸村)は西軍・石田側、長男である真田信之は東軍・徳川方につくことと決まります。どちらが勝っても真田家は残るという苦渋の選択でしたが、ここで信之・稲姫夫婦は、父・昌幸と敵味方となりました。

 攻め上がる東軍・徳川の軍勢を迎え撃つため、帰国を急ぐ真田昌幸の帰路には、稲姫が留守を預かる沼田城がありました。城主の信之は不在で、兵も出払っています。
 昌幸は「孫の顔を見たいので入城したい」と、沼田城の稲姫に使いを送りました。
 まだ自分が敵に回ったと知らない稲姫を騙して兵を城に入れ、戦わずして沼田城を占領する算段でした。

 昌幸が自軍を率いて沼田城に向かいますと、そこは武装した女性たちがずらりと待機。その中でひときわ勇ましい姿で、稲姫は義父・昌幸を出迎えました。
 のちの時代に本多宗家で書かれた記録『九六騒動記』には、この時の稲姫の姿を

「ひをとしの鎧を着、白あやの鉢巻をし、しら柄の長刀を持て」

 と描写しています。真っ赤な紐で飾った甲冑をまとい、白い鉢巻を締め、白木の柄の実戦的ななぎなたを携えていたというのです。

 そして昌幸に「この城は夫の留守の間、本多忠勝の娘にして家康公の養女である自分が預かった。たとえ義父といえど勝手に立ち入るなら、女であれど戦う覚悟」と意思表明をし、城の女たちに「一人ももらすな、者共討ち取れ!」と檄を送ったと言います。
 その気勢に昌幸は沼田城簒奪を諦め、「さすがは本多忠勝の娘よ。あの嫁が居るならば信之の家も安泰だ」と称賛して、城を去ったそうです。

 表裏比興の者という異名を持つ謀略、軍略家の真田昌幸すら出し抜いた稲姫の決断と行動により、沼田城は徳川方の城として守られました。 
 そして関ヶ原の戦いの後、家康公はこの沼田防衛の功を賞賛して、稲姫の夫の真田信之に父の所領であった上田を与え、西軍についた父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願も受け入れました。
 まさしく『真田の家』を守ったこの件を、信之は「あれは自分でなく妻の功だ」と周囲に語ったといいます。

 この逸話はさまざまに語られ、稲姫は、この沼田城を守った逸話により勇猛果敢な賢夫人として名を馳せました。

(本多家の子孫が設計、居住した旧本多忠次邸は、本多家の守城のひとつ、欠城の推定地近くに移築された)

 ところで、この岡崎において、稲姫の痕跡はほとんどありません。
 稲姫の生誕は天正元年と思われるのですが、ちょうど徳川家の本拠が、岡崎から浜松に移った時期と重なります。
 本多家が、最前線となる浜松に、岡崎から家族を連れて行ったのがいつ頃なのか記録はなく、稲姫の生誕地も浜松なのかこの岡崎なのか、はっきりしたことは解りません。
 ただ、忠勝の生誕地である西蔵前、守城である欠城、洞城、岡崎城下・黒門の内とされた屋敷、このどれかが稲姫の生誕地である可能性がないとは言い切れないでしょう。

 稲姫の愛用品という遺品には、笛の形をした懐刀や、「鴻門の会」という勇ましい場面を描いた枕屏風など、どこか勇ましさを連想させるものがあります。
 また、沼田の寺には、追い帰した義父・昌幸と孫たちを後ほど対面させたという逸話、忠勝の所領大多喜には、暴れイノシシを退治して赤子の命を救った逸話など、稲姫所縁の地には、おおらかで優しい人柄を思わせるエピソードが残っています。

 さて、本多家の記録、『九六騒動記』には『沼田殿』(稲姫)のこととして、その性格を「勇猛かつ豪騒」とうたいつつ、こんなエピソードが添えられています。

 ある春の日、稲姫の一行は、城下に花見に出かけました。
 上級の夫人である稲姫は輿という乗り物に乗って、供をする家臣たちは、その周囲で思い思いに談笑していたようです。
 道中で見かけた松は、とても良い枝ぶり。手土産にしたいけど、枝回り一尺(30cm)程のこの枝は太すぎてとても折れないと、供の者たちが嘆きます。
 その話を聞いていたのでしょう。輿のなかの稲姫が「簡単ですよ」と、打掛の裾をからげて輿から飛び降りると、松の枝に手をかけ、ぶつりと枝をねじ切ったので、お付きの者たちは大絶賛したのだとか。
 真田の家を守った賢女としての姿だけでなく、なにごともない日の朗らかで気さくな稲姫の日常を伝え、書き残した本多家の人々もまた、彼女をずっと敬愛していたのでしょう。

 徳川と真田の架け橋として、その勇気と聡明さで城を守った稲姫の物語は、当時の家康公のみならず、500年後の私たちの心をも動かし、その雄姿は、まるで今見た出来事のように、いつでも瞼の裏に思い浮かべることができるのではないでしょうか。

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