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[ 歴史・石碑 ]
2022.03.15
蜻蛉切(とんぼきり) ―徳川を守る本多忠勝の槍―
蜻蛉切(とんぼきり)とは、徳川四天王である本多忠勝の愛槍です。
天下三名槍のひとつとして、500年近く名を残し、鹿角の兜とともに、本多忠勝という武将を象徴するアイテム。岡崎公園の本多忠勝像、天下の道の本多忠勝像、そして、グレート家康公葵武将隊の本多忠勝殿も、この蜻蛉切を手にしています。
美術品としての登録名称は『大笹穂槍 正真 号 蜻蛉切』
正真という名の刀工が打った、大きな笹の葉型の槍の穂先、という意味です。
『蜻蛉切』(とんぼきり)という号(通称)は、この槍を立てておいたところ、穂先に止まろうとしたトンボが、真っ二つに切れてしまった程に鋭いことからついたとされます。
槍というのは本来、実用品であり、切るよりも、叩いたり突いたりして使うもの。丈夫で重く武骨なつくりが多いのですが、蜻蛉切の穂先は500グラムもないという、一般的な槍の穂先の半分くらいの重さ。薄く、軽く、そして、触れただけの虫も斬り落とすと言われても説得力のある鋭さを持っています。
刀身に彫ってある梵字は、上から地蔵菩薩・阿弥陀如来・観音菩薩を表していて、戦国武将の深い信仰心を感じさせます。
忠勝の没後も、本多家の家宝として大切にされていたのですが、昭和の時代に本多家を離れ、現在は静岡県の個人の所有となり、三島の佐野美術館に寄託されています。
徳川家創成期の記録を編纂した『改正三河後風土記』によれば、武田の大軍相手に、本多忠勝が奮戦し、味方を一人も残さず撤退させた一言坂の戦いで、その右手に蜻蛉切が握られていたと記述されています。
この一言坂の戦いの忠勝の雄姿は、『天下の道』に作られた石像にも写され、馬上の石像の右手には、確かに蜻蛉切が握られています。
その他、蜻蛉切は、武田の騎馬隊を徳川織田連合軍が打ち破った『長篠設楽原の戦い』で振るわれたこと。『本能寺の変』の直後、大坂にいた家康公が、わずかな家臣たちと共に岡崎まで帰還する、家康公の三大危機のひとつ『伊賀越え』においても、忠勝とともにあったことが描写されています。
特に伊賀越えの際には、地元民に蜻蛉切を見せつけて(脅して?)道案内をさせたり、追手が使えないように石突(槍の柄の先)で船を壊したりしています。
鋭くも軽い蜻蛉切は、常に軽装で縦横無尽に活躍する忠勝にとって、最適な武器だったのでしょう。
蜻蛉切を作ったのは正真(まさざね)という、室町時代末期の刀工です。
正真と銘のある刀は複数の刀派にあり、諸説あるのですが、ここでは『田原町史』の記述に拠ります。
刀の五大産地の一つ、大和(奈良)の手掻派の刀工が三河に渡り、田原(現在の愛知県田原市)で当時の領主である戸田氏に庇護され、拠点を持ちました。跡を継ぐ男子がいなかったので、地元の田中家から養子を貰い、七女の婿としたのが、この正真と伝わっています。
正真の系統は、三河の田原に住んでいたことから、三河文殊と呼ばれ、蜻蛉切の他にも、徳川四天王の酒井忠次が鷹狩の時、イノシシを見事に切り捨てたことから『猪切』(いのししきり)と呼ばれた刀も打っています。この猪切は岡崎市が収蔵しているので、美術博物館や家康館の展示でたびたび見ることができます。
蜻蛉切は村正派の刀剣か?
正真は、伊勢桑名の『村正』の弟子と書かれている史料もありますが、正確なところは分かっていません。裏表の刃文が同じなど、一致する特徴もあるため、村正と正真との間には技術交流があったのではないかとは推測されています。
村正は『妖刀』の二つ名で有名ですが、家康公の祖父、父、息子を斬った徳川に仇成す刀として、家康公に忌み嫌われたという妖刀伝説は、17世紀になってから発生した後天的なものと研究されています。
正真のいた田原、村正のいた伊勢桑名は、ともに港から近く、舟運が物流の中心だった当時では交流も盛んでした。そして、そこで作られた出来の良い刀剣は、三河武士たちの御用達となっていました。
同じ時代にごく近い関係性だったかもしれないふたりの刀工の刀が、三河武士の愛刀と徳川に仇なす刀という真逆の名声を持ったのは、とても不思議なことですが、どちらも『よく斬れる三河武士に愛された刀』という共通点があるのでしょう。
『三河武士のやかた家康館』の地階、体験コーナーでは、この蜻蛉切の長さを再現した槍を、実際に手に持ってみることができます。
後年になって新井白石が「二丈」(6m)と記述したため、とても長いと言われる蜻蛉切ですが、本多家の記録から再現されたこのレプリカは3m50㎝。忠勝は、甲冑も軽く作り機動性を重んじたので、槍もそうしたのでしょう。
三河の刀工、正真によって生み出され、岡崎で生誕して家康公に仕えた本多忠勝の手にした蜻蛉切は、本多忠勝の名声とともにその名を響かせ、天下三名槍という、戦国時代に活躍した武将の手にした3つの槍のひとつにまで並び立ちました。
お菓子になった『蜻蛉切』
伝馬町に本店を持つ備前屋は、2021年に『蜻蛉切』というケーキを発売しました。
槍という長さを活かし、クレープロールとなったお菓子の蜻蛉切は、パッケージには風流なトンボのシルエットと、格子の和柄。生クリームがたっぷり詰まった、バニラ、ほうじ茶、ストロベリーと3種類の味わいにして、誰でも食べられる軽い味わいの洋生菓子となりました。
私も発売日に3種類ともいただきましたが、見た目よりもあっさりした食感で、かつ生クリームの風味は濃厚で、ぺろりと食べることができます。特にほうじ茶は、この蜻蛉切のために作られたフレーバーでおすすめです。
そして、エクレアもラインナップに入りました。こちらは食べやすいように二つのエクレアを縦に配置したもので、カスタードクリームの風味が生きた品です。
『蜻蛉切』の開発について、備前屋の中野専務にお話を伺いました。
最後の岡崎藩主であった本多家。その藩祖である本多忠勝に関わる菓子をと模索する上で、忠勝の愛槍として有名な『蜻蛉切』を商品化することを思いたち、佐野美術館を訪問、鑑賞したのは平成27年1月。ゲームが発端となる空前の刀剣ブームが湧き上がるより少し前だったそうです。
そして直面されたのが、『槍』と『お菓子』の難しさ。
お客様の口に入るものに、武器・刃物の意匠を使っても良いのか。商品をお渡しした際、お客様に刃物を向けることになってしまうのでは。
名の由来である、切っ先に止まったトンボが真っ二つに切れたという逸話も、良くない印象を持たれる方もいる。
パッケージに、岡崎公園の本多忠勝の石像を配置しようとも思ったそうですが、それは『本多忠勝のお菓子』であって、『蜻蛉切』のお菓子ではないのではないか。
迷ってはいくつも試作され、試行錯誤を繰り返し、辿り着いたかたちでした。
それは、ブームに乗って短い期間で消えていく一過性のものでなく、長い期間、たくさんの客様に愛される製品を、と願ってのかたちです。
たまたま刀剣の話題性が高い時期が重なった『蜻蛉切』の商品開発でしたが、時流に乗るのでなく、刀剣とお菓子というテーマに真摯に向き合われた二年間だったのです。
備前屋さんから、我々、武将や刀剣が好きな人へ向けていただいたメッセージは、
「岡崎の観光や歴史散策のおともに、ぜひ気軽に『蜻蛉切』を食べてください」
『蜻蛉切』を扱うのは、備前屋でも本店をはじめとした、洋菓子を扱う一部店舗。
創業から240年。備前屋さんのお菓子には、名前ひとつにも歴史やストーリーが盛り込まれ、本店を一回りして商品説明を読むだけで、まるで岡崎の歴史のテーマパークを巡るような楽しさがあります。
ぜひ本店に遊びに来て、『蜻蛉切』を味わってください。
刀剣や武具を学ぶことで、武将の人となり、時代背景も見えてきます。
令和5年大河ドラマ『どうする家康』でも、蜻蛉切を携えた本多忠勝の活躍を見ることができると思います。
また、それに併せて蜻蛉切の展示もどこかであるかもしれません。
私はまた、岡崎で蜻蛉切や、数々の名刀を見ることができる日を夢見ています。
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詳細
【蜻蛉切】クレープロール (バニラ・いちご・ほうじ茶)エクレア(2個入り)
各259円(税込)
取り扱い店舗
備前屋 本店
住所:〒444-0038 愛知県岡崎市伝馬通2丁目17
℡0564-22-0234 ➿0120-234-232
備前屋 岡崎南店
住所:愛知県岡崎市岡崎駅南土地区画整理52街区1番 ルビットパーク岡崎内
電話番号 0564-64-5600
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- 備前屋 本店 創業天明2年(1782) 愛知県岡崎市
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