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[ 企画 ]
2022-03-26
【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち①
【八丁味噌】は、米麹や麦麹を用いず、原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆みそのうち、現在の愛知県岡崎市八帖町(旧八丁村)にて生産されてきたものを指します。
地元で古くから造り伝えられてきた豆みそを、岡崎で生まれた徳川家康公が珍重し、幕府を開くと同時に江戸に伝えて全国に広まったとする説もあります。
この、岡崎が誇る伝統調味料は、長い歴史の中で多くの人々に親しまれてきました。
カクキュー八丁味噌の史料室、及び史料館には「荷物発送簿、領収書、払込通知書」等、多くの資料が残っています。その中で、明治期から昭和期にかけて八丁味噌を愛用した著名人たちを、資料写真と共に「カクキュー八丁味噌公式サイト」より引用してご紹介します。
被爆者診療に取り組んだ医師、秋月辰一郎(あきづきたついちろう)
1916年(大正5年)~2005年(平成17年)長崎市出身。医師。長崎平和推進協会顧問。
1945年(昭和20年)8月9日に原子爆弾が長崎市に投下され、爆心地からわずか1.8キロの場所にあった浦上第一病院(現・聖フランシスコ病院)で診療中に被爆。直後より長年にわたり、被爆者の診療に従事しました。著書に「体質と食物」「死の同心図」「長崎原爆記」等があります。
当社史料室には昭和40年代に御本人から頂いた手紙が残っています。又、当社史料館では秋月辰一郎から頂いた年賀状、著書「長崎原爆記」を常設展示しています。
昭和50年頃には秋月辰一郎が当社に来社されており、旧総務部長と現19代当主が面会しました。
秋月辰一郎は原子爆弾が投下された際、焼け出された患者を治療しながら必死に働きました。秋月氏の著書「体質と食物」に下記の記述が紹介されています。
『(前略)その時私といっしょに、患者の救助、付近の人びとの治療に当たった従業員に、いわゆる原爆症が出ないのは、その原因の一つは、「わかめの味噌汁」であったと私は確信している。』
天皇の料理番とうたわれた、秋山徳蔵(あきやまとくぞう)
1888年(明治21年)~1974年(昭和49年)福井県出身。料理人。フランス料理アカデミー名誉会員。
大正・昭和時代の58年間宮内庁大膳課主厨長を務め「天皇の料理番」と言われました。宮中での公式行事の料理を担当し、日本の西洋料理の普及に尽力されました。
秋山徳蔵の著書「秋山徳蔵選集第二巻」の「豆みそ」の項で「大豆の麹を使うもので、その名のとおり豆だけでつくる味噌である。八丁味噌がその代表的なもの。(中略)保存はものすごくきくから、すこしばかり常備しておいて、舌の楽しみにするとよい。」と紹介されています。
当社の八丁味噌は、明治25年から宮内省への納入が始まり、明治34年12月28日に正式に「宮内省御用達」の許可を得ました。昭和28年2月23日には当社に来社されており、その時の御名刺や、宮内省御用達に関連した資料を史料館にて展示しております。
当社史料室には昭和時代に秋山徳蔵宛に味噌をお送りした記録が残っています。宛先は宮内庁。
日露戦争で活躍した日本騎兵の父、秋山好古(あきやまよしふる)
1859年(安政6年)~1930年(昭和5年)愛媛県出身。日本騎兵隊の創設者。陸軍大将。陸軍教育総監。
司馬遼太郎の代表作のひとつ「坂の上の雲」は伊予松山出身の秋山好古、真之、真之の親友正岡子規の3人を主人公にした歴史小説です。テレビのドラマ化もされ大変話題になりました。
秋山好古は、日清、日露戦争で活躍しました。日露戦争では無敵といわれたコサック騎兵団を破り、勝利に導く立役者となり「日本騎兵の父」と呼ばれました。
秋山好古は大変子ども好きで学校の教師になるという夢を10代で叶えましたが、その後職業軍人に転向しました。晩年は若い頃の夢を再び実現する為、郷里に帰り北予中学校(現松山北高等学校)の校長に就任しました。現代民主主義国家の学校教育に通じる先駆的教育者といわれ大変評価されています。穏やかな性格で風格もあり多くのエピソードが残っています。
当社史料室には昭和時代にお客様の御用命により秋山好古の自宅宛に味噌をお送りした記録が残っています。
仏教考古学の第一人者、石田茂作(いしだもさく)
1894年(明治27年)~1977年(昭和52年)
愛知県岡崎市出身。仏教考古学者。
奈良国立博物館館長。文化功労者。岡崎市名誉市民。
法隆寺若草伽藍発掘を始め全国各地の古代寺院跡、仏像、仏具、瓦などを調査研究され、仏教考古学の第一人者となりました。
郷里には生家の再建時に不要になった古瓦を利用して茂作が建立した廃瓦塔が有ります。
当社史料室には昭和時代に自宅宛に味噌をお送りした記録が残っています。自宅は東京都豊島区。
写真下:原田平著「七凹八凸(七転八起)石田茂作『二つの感謝』を読み解く」平成31年1月発行
郷土の鉄道事業の発展に貢献した、伊藤小文司(いとうこぶんじ)
1848年(嘉永元年)~1918年(大正7年)
愛知県出身。岡崎市の環翠堂(本文書店)店主。
郷土の鉄道事業の発展や出版文化に功労。岡崎市名誉市民。
岡崎市議会議員等をつとめ、卓越した進歩性を発揮して岡崎電気鉄道の創設に尽力しました。
印刷、出版の経営者で知識人でもあり、環翠堂は東海道における有数な書店として知られました。
当社史料室には、明治26年6月に環翠堂から発行された「英銘百首」や大正期から昭和期の手紙、ハガキ等が残っています。
カクキュー八丁味噌の14代当主早川休右衛門の妻(千代)が1879年(明治12年)の70歳記念に「明治新題余力詠歌集」、1889年(明治22年)の80歳記念に「歌集ちりひじ集」を環翠堂から刊行しました。
夏目漱石にも評価された小説家、伊藤左千夫(いとうさちお)
1864年(元治元年)~1913年(大正2年)
千葉県出身。歌人。小説家。
正岡子規に師事し、子規の没後は短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となり、斉藤茂吉などを育成しました。
小説「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表し、夏目漱石に評価され、淡き恋の物語として一躍有名になりました。
当社史料室には明治末期にお客様の御用命により伊藤左千夫の自宅宛に味噌をお送りした注文書が残っています。自宅は東京都墨田区。
社史「山越え谷越え350年」の八丁味噌の和歌のコーナーで、伊藤左千夫の「水ゆらぎ 矢作の川の ひんがしに ひそめる龍や 雲巻きおこす」の作品が紹介されています。
「カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち」は、いかがでしたか?
今回は、こちらの6名をご紹介させていただきました。
〇秋月辰一郎(医師)
〇秋山徳蔵(料理人)
〇秋山好古(軍人・教育者)
〇石田茂作(仏教考古学者)
〇伊藤小文司(環翠堂店主)
〇伊藤左千夫(歌人・小説家)
多岐にわたって八丁味噌が愛されていたことに感銘を受けましたが、個人的には、被爆者の診療に従事された秋月辰一郎氏の「味噌」に対する医学的な効果・見解を、特に興味深く感じました。
みなさんはいかがでしたか?
連載「カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち②」も楽しみにお待ちください。
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[ 企画 ]
【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち①
- 時間
- ■売店営業時間 9:00~17:00 ■工場見学時間 10:00~16:00 (平日)毎時00分、(土日祝)毎時00分・30分に出発 ■フードコート 11:00~15:00(L.O.14:30)
- WEB
- https://www.kakukyu.jp/
- 問合せ
- 0564-21-1355
- その他
- ●定休日:12/31、1/1
●駐車場:40台
●行き方:名鉄 岡崎公園前駅より徒歩5分
愛知環状鉄道 中岡崎駅より徒歩5分
東名岡崎ICより車で10分
豊田東ICより車で20分
名鉄東岡崎駅よりタクシーで5分/バスで10分
JR岡崎駅よりタクシーで15分
東海道新幹線 三河安城駅よりタクシーで30分
この記事で紹介されたスポット
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①カクキュー八丁味噌