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[ 企画 ]
2022-08-27
【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち⑤
【八丁味噌】は、米麹や麦麹を用いず、原料大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆みそで、江戸時代初期より愛知県岡崎市八帖町(旧八丁村)で造られたことより、「八丁味噌」と呼ばれるようになりました。
なお、徳川家康公の茶道役の石川金阿弥という人物が、家康公に住家の場所を聞かれ「大手(岡崎城)より八丁あまりあります」と答えたことから、この地が「八丁村」と呼ばれるようになったという説があります。このことより、家康公がいたからこそ「八丁味噌」の名称が生まれたとも考えられます。
この、岡崎が誇る伝統調味料は、長い歴史の中で多くの人々に親しまれてきました。
カクキュー八丁味噌の史料室、及び史料館には「荷物発送簿、領収書、払込通知書」等、多くの資料が残っています。その中で、明治期から昭和期にかけて八丁味噌を愛用した著名人たちを、資料写真と共に「カクキュー八丁味噌公式サイト」より引用してご紹介します。
宝塚歌劇団、東宝映画の創立者、小林一三(こばやしいちぞう)
1873年(明治6年)~1957年(昭和32年)
山梨県出身。実業家。阪急電鉄・宝塚歌劇団・東宝映画を創立。また政治家としても活躍し、商工大臣・国務大臣等を歴任。
カクキュー史料室には昭和20年代に小林一三の自宅宛に味噌を送った記録が残っております。自宅は一三が手掛けた住宅地の大阪府池田市。
カクキューでは縁のある人から寄贈された戦前の宝塚歌劇団の観覧券・チラシ・ブロマイド・レコード等が保管されています。
2014年、宝塚歌劇団は100周年を迎えるのに合わせ、カクキュー史料館において上記資料を展示致しました。
(展示期間:2014年3月11日~2014年6月27末迄)
※現在は展示を終了しております
愛知県内を流れる渓流「日本ライン」の名付け親、志賀重昂(しがしげたか)
1863年(文久3年)~1927年(昭和2年)
愛知県岡崎市出身。
世界的地理学者・政治家・世界旅行家・ジャーナリスト。
木曽川の「日本ライン」や「恵那峡」の命名者。
カクキュー史料室には明治・大正期に志賀より16代当主及び17代当主に送られた多くの手紙やハガキが残っています。
明治44年にドイツのドレスデン開催の万国衛生博覧会への八丁味噌出品に尽力しました。
札幌農学校時代(現在の北海道大学)では新渡戸稲造、内村鑑三と机を並べ交友を深めました。
岡崎市東公園内には東京の自宅を移築した南北亭・インド様式の墓・銅像・三河男児歌碑等があり、志賀の面影を偲ぶことが出来ます。
岡崎市の岡崎公園内に有る「杉浦銀蔵の碑」の碑文は志賀によるものです。
岡崎電灯創始者の杉浦銀蔵はカクキューと縁の深い人物です。
同じく岡崎公園内に「アラモの碑」も建立。碑文も志賀によるものです。
「小説の神様」と称えられた白樺派を代表する小説家、志賀直哉(しがなおや)
1883年(明治16年)~1971年(昭和46年)
宮城県出身。小説家。
代表作「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など多数。
1949年(昭和24年)文化勲章受章。
日本における私小説のスタイルを確立し「小説の神様」と称えられました。
武者小路実篤、有島武郎らと雑誌「白樺」を創刊しました。
カクキュー史料室には1931年(昭和6年)に志賀直哉の自宅宛に味噌を送った記録が残っています。自宅は奈良市上高畑。
※1929年(昭和4年)に志賀直哉が設計した数奇屋造りの家を奈良市上高畑に新築しました。昭和初期、多くの文人、画家が集まり、高畑サロンと呼ばれるようになりました。その1人に「蟹工船」で知られるプロレタリア作家の小林多喜二がいました。又、長編小説「暗夜行路」もこの家で完結しました。
なおカクキューと縁のあった蒲郡市の蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)にも志賀直哉が滞在されています。
近代日本経済の父として生涯に約500もの企業に携わった、渋沢栄一(しぶさわえいいち)
1840年(天保11年)~1931年(昭和6年)
埼玉県出身。幕臣。官僚。実業家。教育者。子爵。
幕臣として徳川慶喜に仕え、弟の徳川昭武が将軍の名代として1867年(慶応3年)パリ万国博覧会に派遣された使節団に加わり渡欧し西洋文明に衝撃を受けました。
※千葉県の松戸市戸定歴史館にパリ万国博覧会に関する古文書など貴重な資料が展示されています。
隣接する徳川昭武邸宅には慶喜や使節団員が再々訪れました。第一国立銀行、東京証券取引所など約500社の企業の設立、経営等に関わりました。福祉、医療、教育等の社会公共事業にも尽力し「日本経済の父」と称され、1916年(大正5年)に彼が出版した著書「論語と算盤」で道徳と経済の一致を説いています。
2024年(令和6年)には彼の肖像の入った新1万円紙幣が発行されます。カクキュー史料室には彼の名前が記された早稲田大学故大隈侯爵記念事業部からカクキュー17代宛に届いた大正時代の年賀状と連合国軍隊慰問協賛会から届いた感謝状が残っています。
三河地方における女子教育の先駆者、白井こう(しらいこう)
1869年(明治2年)~1954年(昭和29年)
渥美郡田原町出身(田原藩士の娘)。三河地方での女子教育の先駆者。
文部大臣表彰。岡崎市名誉市民。
夫の早世で若くして2男1女の未亡人となりましたが、上京し洋裁を学びました。小学校教師を経て、1906年(明治39年)に岡崎裁縫女学校を創設し、校長となりました。その後、校名変更により岡崎高等家政女学校長となりました。
カクキュー史料室には、大正時代・昭和時代の名刺や年賀状、卒業証書授与式の案内状が残っています。
又、昭和時代の白井孝自身や岡崎高等家政女学校からの味噌の注文書も残されています。
熱田神宮の土産菓子「きよめ餅」の考案者、新谷栄之助(しんたにえいのすけ)
1905年(明治38年)~1978年(昭和53年)
和菓子店「きよめ餅総本家」(愛知県名古屋市熱田区)の創業者。
1785年(天明5年)頃に熱田神宮西門近くに「きよめ茶屋」が設けられ、参拝者はここでお茶を頂き旅の疲れを癒してから参拝しました。
「きよめ茶屋」に因んで、新谷栄之助が昭和初期に羽二重餅にこしあんをくるんだ「きよめ餅」を考案し、「熱田詣りにきよめ餅」「名古屋土産にきよめ餅」と全国に名を知られる様になりました。
「きよめ餅総本家」とカクキューは、「東海志にせの会」の会員で、同会の総合誌「あじくりげ」は1956年に創刊し、2016年の終刊まで60年間愛されました。
カクキュー史料室には、新谷栄之助から昭和時代に頂いた年賀状が残されており、年賀状には日本画家「石川英鳳」の木版画が刷られています。
※石川英鳳について
1896年~1973年
安城市出身。大正から昭和にかけて活躍した日本画家。
「カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち」は、いかがでしたか?
〇小林一三(実業家)
〇志賀重昂(世界的地理学者・政治家・世界旅行家・ジャーナリスト)
〇志賀直哉(小説家)
〇渋沢栄一(幕臣・官僚・実業家・教育者・子爵)
〇白井こう(教育者)
〇新谷栄之助(和菓子店「きよめ餅総本家」の創業者)
今回はこちらの6名の著名人をご紹介させていただきました。
新一万円紙幣の顔となる渋沢栄一、白樺派の代表格「志賀直哉」などのビッグネームから、三河地方にゆかりの深い著名人まで、国を培った様々な人とつながりがあったカクキューですが、彼らとのつながりを示す資料が残されている事の貴重さをしみじみ感じました。
次回もお楽しみに。
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【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち⑤
- 時間
- ■売店営業時間 9:00~17:00 ■工場見学時間 10:00~16:00 (平日)毎時00分、(土日祝)毎時00分・30分に出発(12:30の回はお休み) ■フードコート 11:00~15:00(L.O.14:30)
- WEB
- https://www.kakukyu.jp/
- 問合せ
- 0564-21-1355
- その他
- ●定休日:12/31、1/1
●駐車場:40台
●行き方:名鉄 岡崎公園前駅より徒歩5分
愛知環状鉄道 中岡崎駅より徒歩5分
東名岡崎ICより車で10分
豊田東ICより車で20分
名鉄東岡崎駅よりタクシーで5分/バスで10分
JR岡崎駅よりタクシーで15分
東海道新幹線 三河安城駅よりタクシーで30分
この記事で紹介されたスポット
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①カクキュー八丁味噌