マスコット

49

[ 企画 ]

2024-06-18

【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち⑨

【八丁味噌】は、米麹や麦麹を用いず、原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆みそで、江戸時代初期より愛知県岡崎市八丁町(旧八丁村)で造られることから八丁味噌と呼ばれるようになりました。
地元で古くから造り伝えられてきた豆みそを、岡崎で生まれた徳川家康公が珍重し、幕府を開くと同時に江戸に伝えて全国に広まったとする説もあります。

この、岡崎が誇る伝統調味料は、長い歴史の中で多くの人々に親しまれてきました。
カクキュー八丁味噌の史料室、及び史料館には「荷物発送簿、領収書、払込通知書」等、多くの資料が残っています。その中で、明治期から昭和期にかけて八丁味噌を愛用した著名人たちを、資料写真と共に「カクキュー八丁味噌公式サイト」より引用してご紹介します。

【引用元】カクキュー八丁味噌を愛した著名人

むきみ汁が人気の料理旅館「藤傳(ふじでん)」の店主、林傳蔵(はやしでんぞう)

むきみ汁が人気の料理旅館「藤傳(ふじでん)」の店主、林傳蔵(はやしでんぞう)

料理旅館「藤傳(ふじでん)」の店主。

「藤傳」は嘉永年間に林家13代目が独立し、岡崎市の矢作橋畔に料理業を開業しました。名物八丁味噌を看板に「むきみ汁」が人気を得てその後も大繁盛しました。しかし、矢作川河川改修工事の為に立退きの運命に遇い、大正の終わり頃に店を閉じました。

カクキューでは、1923年度の大豆購入量が五千石を越えたのを記念し、1924年6月8日に、従業員や関係者らで岡崎市八帖町の諏訪神社にて祝賀会「五千石祝い」を行いました。また、取引先の人達を「藤傳」に連日招待しました。

1888年発行の「参陽商工便覧」に「藤傳」が紹介されています。また、岡崎市十王町の西本願寺三河別院に1931年に岡崎納札会が建立した「浄瑠璃姫観月遺跡」があり、賛同した「ふじ傳」の名前も刻まれています。

カクキュー史料室には、林傳蔵から17代早川久右エ門宛の年賀状や、注文の記録が多数残されています。また、カクキューの八丁味噌づくしの「新年懐石料理献立」のお品書きが残されています。

「放浪記」など数々のベストセラーを生み出した小説家、林芙美子(はやしふみこ)

「放浪記」など数々のベストセラーを生み出した小説家、林芙美子(はやしふみこ)

1903年~1951年
福岡県出身(又は山口県)。小説家。代表作「放浪記」「浮雲」「晩菊」「うず潮」など多数。

1930年に出版した自伝的作品「放浪記」はベストセラーとなり映画化や舞台化されました。1948年に「晩菊」で女流文学者賞を受賞。

生誕地とされる福岡県北九州市には、生誕地碑や林芙美子記念室があります。また、2014年「林芙美子文学賞」が創設されました。
6年間程過ごした広島県尾道の「文学のこみち」には、林芙美子の文学碑が建立されています。作家の道を歩むきっかけを作った小学校の恩師・小林正雄の揮毫で「放浪記」の一節が刻まれています。
林芙美子は「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」という詩をとても好み、色紙等に書いています。

川端康成とは30年にも及ぶ深く長い交流が続き、林の葬儀では、葬儀委員長をつとめました。
カクキュー史料室には、昭和時代に林の自宅宛に味噌をお送りした記録が残っています。自宅は東京都新宿区。

日本の電力業界を中心に活動した実業家、福沢桃介(ふくざわももすけ)

日本の電力業界を中心に活動した実業家、福沢桃介(ふくざわももすけ)

1868年~1938年
埼玉県出身。実業家。

福沢諭吉の婿養子となり、電力会社や鉄道会社を経営し「電力王」と呼ばれました。
又、幅広い事業を名古屋で手がけ、名古屋工業化の先駆けとなりました。

日本で最初の女優・川上貞奴は福沢桃介の事業パートナーとしても活躍しました。

カクキュー史料室には大正時代に福沢桃介から送られたハガキ等が残っています。

七宝製作のブームの先駆者である工芸家・図案家、藤井達吉(ふじいたつきち)

七宝製作のブームの先駆者である工芸家・図案家、藤井達吉(ふじいたつきち)

1881年~1964年
愛知県出身。日本近代工芸の先駆者・小原和紙工芸の創始者・瀬戸の陶芸の再興に尽力。雑誌「主婦之友」に手芸製作法を寄稿。
岡崎の有名な料亭「中むら」の女将(中村くに)は、藤井達吉の良き理解者としても知られています。

2024年は小原和紙工芸誕生90年を迎えます。

カクキュー史料室には、昭和初期に神奈川県真鶴の自宅から味噌の注文を頂いた記録が残っています。その封筒は和紙で作られています。
またカクキューには、昭和9年に鶴舞公園の名古屋市美術館で愛知社による展覧会が開催された時の案内状が残っています。
愛知社同人の中に藤井達吉の名があります。

岡崎市美術博物館では平成16年に「藤井達吉の芸術図案と工芸」・平成26年に「藤井達吉の全貌」が開催されました。

生誕地の碧南市には「碧南市藤井達吉現代美術館」があり、平成20年に「藤井達吉のいた大正」・平成21年に「画家としての藤井達吉」が開催されました。

エコール・ド・パリの代表的な画家、藤田嗣治(ふじたつぐはる / レオナール・フジタ)

エコール・ド・パリの代表的な画家、藤田嗣治(ふじたつぐはる / レオナール・フジタ)

1886年~1968年
東京都出身。洋画家。

20代で渡仏しピカソやモディリアニ等パリの画家と交流し、「乳白色の肌」で知られる裸婦像でパリ画壇の寵児となりました。

第2次大戦に伴い帰国。従軍して「アッツ島玉砕」等多くの戦争記録画を描きましたが、責めを負うように戦後日本を離れました。

その後、フランス国籍を得てカトリックの洗礼を受けレオナール・フジタとなりました。晩年フランスのランス市に礼拝堂を建設。ここに藤田夫婦が眠っています。

カクキュー史料室には昭和20年代に味噌を送った記録が残っています。宛先には「パリ市 早く」と記入されています。

「徳川四天王」と称された本多忠勝の直系、本多家(ほんだけ)

「徳川四天王」と称された本多忠勝の直系、本多家(ほんだけ)

本多 忠敬 1863年~1920年
東京都出身。子爵。宮内省式部官。貴族院議員。
本多家の17代当主で徳川家臣団の中で「徳川四天王」と称された本多忠勝の直系です。

カクキュー史料室には大正期に忠敬より送られた手紙や大正4年に開催された「徳川家康、本多忠勝両公三百年祭」の祭主を務めた時に発行された記念ハガキが残っています。

忠敬の長男で本多家18代当主である忠昭から昭和期に東京の自宅から味噌の注文を頂いた記録が残っています。

岡崎市東公園内に旧本多忠次邸があります。忠敬の次男忠次が昭和7年に東京に建てたスパニッシュ様式の洋館を移築復元したものです。

江戸時代末期、本多家15代当主忠民(岡崎藩主)に、久姫様が誕生され、藩より「久」の付く人は改名する様にお触れが出されました。その為、早川家では15~16代当主が早川久右衛門を改め、早川休右衛(ェ)門と名乗りました。
大林寺には16代、17代当主の墓が並んで祀られています。

「カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち」は、いかがでしたか?

「カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち」は、いかがでしたか?

〇林傳蔵(料理旅館「藤傳」店主)
〇林芙美子(小説家)
〇福沢桃介(実業家)
〇藤井達吉(工芸家・図案家)
〇藤田嗣治(洋画家)
〇本多家(本多忠敬)(子爵、宮内省式部官、貴族院議員)
今回はこちらの6名の著名人をご紹介させていただきました。

本多忠次邸は、本多忠敬の次男・忠次が周到な調査や準備期間を経て、敷地選定から建築基本設計を自分自身で行い、36歳の時におよそ1年かけ完成させた建物。当時は東京世田谷区に建っていました。
それを移築修復したのが、東公園内にある旧・本多忠次邸です。

現在では、企画展示や歴史文化講座、サポーターの会による案内や、おもてなし企画の開催などが行われています。
入館料は無料(企画展等開催時は有料)で、誰でも見学することができます。
ぜひ一度訪れてみて下さい。

次回もお楽しみに。

【前記事】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち⑧

いいと思った分だけ、ハートを押してね!

49

いいね

[ 企画 ]

【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち⑨

時間
■売店営業時間 9:00~17:00 ■工場見学時間 10:00~16:00 (平日)毎時00分、(土日祝)毎時00分・30分に出発(12:30の回はお休み) ■フードコート 11:00~15:00(L.O.14:30)
WEB
https://www.kakukyu.jp/
問合せ
0564-21-1355
その他
●定休日:12/31、1/1、1/2
●駐車場:40台
●行き方:名鉄 岡崎公園前駅より徒歩5分
愛知環状鉄道 中岡崎駅より徒歩5分
東名岡崎ICより車で10分
豊田東ICより車で20分
名鉄東岡崎駅よりタクシーで5分/バスで10分
JR岡崎駅よりタクシーで15分
東海道新幹線 三河安城駅よりタクシーで30分

この記事で紹介されたスポット

クリックで場所を確認

①カクキュー八丁味噌