マスコット

132

[ 歴史・石碑 ]

2023.07.01

【どうする家康★記念連載】第十回 信康事件とは 徳川家の悲劇、その思いと苦悩を越えて

『どうする家康★記念連載』では、令和5年度大河ドラマの放送を記念して、徳川家康公の生誕地である岡崎の家康公と三河武士ゆかりのエピソードを連載していきます。

家康公の正室・築山殿と、長男・信康の命を奪った『信康事件』は、家康公の人生で最大の悲劇です。
第九回では、築山殿と信康の半生から、この事件が起こるまでの岡崎の動きを紹介しました。

今回は『信康事件』と総称される一連の悲劇が起こった、天正7年の夏までの出来事を追いながら、この事件とそれに関わる人物について考えていきたいと思います。


天正3年(1575)4月、岡崎のクーデターが失敗したことが要因の一つとなり、徳川・織田連合軍と、戦国最強と言われた武田軍と激突した長篠設楽原の戦い。
徳川家は武田勝頼の率いる武田軍を打ち破り、大勝利に終わりました。

しかし、この長篠の戦いの前後から、信康と、父である家康公の間に、少しずつ不協和音が聞こえてきます。
記録された信康の言動に暴力的、残酷とれるものが目立つようになり、信康に射殺されそうになった榊原康政が、必死に説教をした逸話があります。

ただ、のちの事件から逆説的に描かれた人物像である可能性があります。
大久保忠世の弟、信康とは同世代の大久保彦左衛門は、著書の『三河物語』に、信康のことを武辺に長けた素晴らしいカリスマと褒め称えています。

また、長篠の戦いの立役者・奥平信昌に妹の亀姫を嫁がせるという縁談に、信康は不満を示し、織田信長に反対意見を訴え、「家康の決めたことだから」となだめられたという話もあります。

【まとめ記事】徳川家康公の物語 (家康公の生誕地・愛知県岡崎市)

忍び寄る不穏 水野信元の暗殺と五徳姫

忍び寄る不穏 水野信元の暗殺と五徳姫

家康公の伯父で刈谷城主水野信元に、謀反の疑いがかかった際、その処罰を徳川家が、信長から命令があったのもこの頃です。

岡崎に滞在していた水野信元は大樹寺に呼び出され、平岩親吉により殺害されました。平岩親吉は信元の遺体をかき抱いて、涙ながらに詫びたともいいます。
また、水野信元の妹、於大の方の再婚相手である久松俊勝(長家)は、水野信元を呼び出すために利用され、殺害に立ち会ったことから嘆き悲しみ、隠居してしまいました。


信康の正室であり、信長の愛娘・五徳もまた、夫である信康との不仲や築山殿への敬意の足りなさが取沙汰されます。
しかし、信康と五徳の夫婦間には、二人の娘も誕生していて、単純に仲の悪い夫婦だったとは言い切れないでしょう。
実態の良くわからないこの事件の元凶を押し付けるような、後から創作されたと思える不行状もあります。

どちらかといえば、浜松城の家康公と、岡崎城の信康という二つの命令系統を持つ、特殊な領国支配構造と、その二つの物理的な距離が産んだすれ違い、また、岡崎城の女あるじとして築山殿が独自に築いていた外交ルートが、問題を深刻化させたのではないでしょうか。

【あわせて読みたい】大樹寺 ―生き抜け。厭離穢土 欣求浄土の旗のもと―

十二ヶ条の訴状と信康の追放

十二ヶ条の訴状と信康の追放

(信康が祭神として祀られる若宮八幡宮)

天正7年(1579)、五徳より父の信長宛に、築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を訴える手紙が送られました。
『十二ヶ条の訴状』と呼ばれるこの手紙ですが、後世に残された資料でも10か条だったり6か条だったりとあやふやです。
内容は主に、信康の不行状と家中での信頼の失墜、築山殿の武田への内通を訴えたもので、この訴状を読んだ信長は、徳川重臣の酒井忠次と大久保忠世に問いただし、二人は12の訴えのうち10は肯定。それを受けて、酒井忠次に信康の処分を徳川方に任せた……とあります。

これを受けた一連の成り行きを、織田家の命令と取るか、徳川家独自の判断と取るかは、かなり難しいところです。
ともあれ、普段から岡崎城下に集まっていた家臣たちは所領へ帰るように命令され、困惑しながら従ったことが『家忠日記』から伺えます。
そして天正7年8月4日、信康は『不覚悟』(行いが悪い)を理由に、岡崎城から追放されました。

(浜松市・西来院)

21歳の信康にくだされた、突然の追放命令。これは、信康を家康公の後継者からはずすこと、すべての権力を奪うことも意味しました。

家康公が一軍を率いて反抗を警戒するなか、信康は黙ってこれに従い、家臣の城である大浜(現在の碧南市)に蟄居しました。資料によっては、自ら岡崎を明け渡し大浜に移ったと記すものもあります。
その後、堀江城、二俣城(ともに現在の浜松市)へと転々と謹慎先を移されます。

この動きを見る限り、家康公は、信康の命まで奪うつもりはなかったのでしょう。廃嫡(後継としての権利を失う)と軍事力を奪い、無力な隠居として静かに過ごしてくれれば、それで良いと考えていたのかもしれません。

信康が三河を離れ、堀江城に幽閉された20日後。悲劇は動き出します。

築山殿の覚悟

築山殿の覚悟

(浜松・西来院の築山殿の墓所)

曳馬拾遺という古書に、その日の築山殿の姿が断片的に記されています。

天正7年8月の晦(29日)、築山殿は浜松へ向かう輿に乗っていました。その道中、佐鳴湖東岸の小藪のあたりで、「このあたりで良い」と築山殿は声をかけ、輿を止めさせます。そして、同行していた野中重政に、「覚悟はできている。さあ斬りなさい」と告げ、静かに正座して合掌し、目を閉じました。
築山殿は、この浜松への移動が自分の殺害命令だということ、それはおそらく信康のためだと察していたのでしょう。
野中重政は太刀を抜いたものの、お方様を斬る刃は持たぬとためらいます。
築山殿は「御役目を果たしなさい。出来ないのなら私自身で!」と懐剣を抜き、自分の喉を突きました。野中重政はやむなく、二尺三寸の相州貞宗の太刀で介錯。築山殿は佐鳴湖畔で命を落としました。

家康公と縁の深かった西来院の住職が、その遺体を近くに埋葬、のちに西来院に墓所をつくり菩提を弔ったといいます。

築山殿の首塚

築山殿の首塚

(祐傳寺にある築山御前の首塚)

ここに記された出来事の信憑性はわかりません。のちに山岡荘八氏が『徳川家康』で描いた築山殿の死に様は、もっと見苦しく取り乱したもので、その悪辣な性格も含めて『悪女』を強く印象付けました。
ただ、山岡荘八氏は「築山殿はあんな悪人では無かったのでは?」という読者からの質問に対して、「自分もそうでないことは知っているけれど、これは小説なのでわかりやすい性格づけは必要」と答えたといいます。
小説がベストセラーとなり国民的ドラマ化する過程で、昭和の築山殿の印象は悪女で塗り固められていったのです。

家康公は妻の死の報告を聞き、なんとか命だけは助けられなかったのかと嘆いたことが、正式記録である徳川実記に記されています。

築山殿の首は織田家に送られました。石川数正はその首を岡崎に持ち帰り、祐傳寺に首塚を作って弔い、隣に築山神明宮という築山殿を祭神とした神社を勧請しました。

【あわせて読みたい】瀬名姫が「築山御前」と呼ばれる由来となった「築山」とはどこか -築山稲荷と総持尼寺-

信康の最期

信康の最期

江戸時代になり、岡崎城下の市街地に伴って、築山神明宮は欠町の八柱神社に合祀されることとなり、首塚もその際に八柱神社に移築されました。
八柱神社にある築山殿の首塚の、大きな五輪塔は供養塔で、手前にある自然石が首塚なのだそうです。
現在、祐傳寺にある『築山御前の首塚』は、この自然石のそばにあった供養塔だと推測されます。そばにある小さな二つの石塔は、築山殿に殉じて自害した侍女たちの供養塔と聞いています。


そして、築山殿の散華から15日後の9月15日、幽閉先だった遠州二俣城にて、信康が亡くなりました。その状況から自刃したと推測されています。

信康の介錯役を負ったのは、服部半蔵正成でした。しかし、あふれる涙で前が見えず、刀を振るうことができなくなり、見かねた天方氏が代わって介錯したといいます。
こうして信康は、その短い命を散らしました。
二俣城の周囲に浄土宗の寺院はなく、小さな庵に遺体を埋葬しました。そして信康の墓所を守るため、信康山清龍寺は建立されます。

悲劇、そしてその後

悲劇、そしてその後

織田家に送られ、岡崎に戻された信康の首。
信康が初陣祈願したというゆかりのある、根石原観音堂の横に、その首を埋葬しました。これが現在若宮八幡宮にある信康の首塚です。
その後、付近でたたりを思わせる怪異が続いたため、近くの名栗天神を首塚の横に移築、信康を神として合祀し、若宮八幡宮としました。
江戸後期の絵図を見ると、若宮八幡宮、首塚、根石原観音堂がひとつの場所にあった様子がわかります。
その後、明治の神仏分離令で、根石観音堂だけが北に移設され、現在の根石寺として独立しています。

築山殿も信康も、結局、死に至るまでの理由も経緯もわからないことが多く、後世になり、その不可解な死に理由付けするために、悪人・悪女の伝説が付加されていった印象があります。

二人を書状で弾劾したという五徳も、それから1年は岡崎に留まり、織田家に戻る際も二人の娘を徳川に残していきます。
徳川と敵対していたのならば、大切な娘たちを岡崎に残したりしなかったでしょう。
そして、21歳という若さで夫を失ってから78歳で亡くなるまで、五徳は再嫁することはありませんでした。

信康と五徳の娘のうち、長女の登久姫は成長して小笠原秀政と結婚、6男2女に恵まれました。小笠原秀政はのちに信濃松本藩初代藩主となります。

次女の熊姫は、本多忠勝の長男・忠政と結婚。本多忠政は桑名藩主を経て姫路藩主となり、二人の間に産まれた本多忠刻は、豊臣秀頼の死後未亡人だった千姫と結婚しました。

そして徳川家は、信康事件の2ヶ月前に誕生した長丸、のちの徳川秀忠を嫡男として、新たに出発、様々な困難に立ち向かっていくのです。

<前編>【どうする家康★記念連載】第十回 信康事件とは 徳川家の悲劇、その思いと苦悩を越えて

面白かったら、ハートを押してね!

132

いいね

詳細

文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。

写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterを中心に活動中。

この記事で紹介されたスポット

八柱神社

欠町 神社、築山御前塚

神社・お寺

MAP

祐傳寺

両町 お寺

神社・お寺

MAP

若宮八幡宮

朝日町 お寺、徳川信康公塚

神社・お寺

MAP

根石寺

若宮町 お寺

神社・お寺

MAP

大樹寺

鴨田町 寺

神社・お寺

TEL : 0564213917

MAP