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[ 歴史・石碑 ]
2023.01.24
瀬名姫が「築山御前」と呼ばれる由来となった「築山」とはどこか -築山稲荷と総持尼寺-
家康公の正室(最も重要な妻)となった瀬名姫は、駿府で家康公と婚姻を結んだ後、岡崎に滞在した際は、岡崎城外の『築山』(つきやま)に住したと伝わります。
『築山御前』と呼ばれた瀬名姫ですが、この名は移り住んだ築山の地からきています。
では、築山とはどこにあったのでしょうか。
かつて『築山』と呼ばれた地と、そこにあった神社仏閣のその後を探ってみます。
築山稲荷
岡崎天満宮の由緒として伝わる伝説に、平安時代、順徳天皇の時代、宮中に、夜な夜な光る野狐がいて皇女を祟っていました。
これを弓の名手が射殺して遺骸を三河菅生郷(現在の岡崎市中心部)に送り、埋葬した地に日本全国の名山から土を集めて山を築き(築山)、稲荷社を祀って祟りを鎮めたという伝説があります。
この狐を射殺した弓の弦を祀ったのが、岡崎天満宮のいわれですが、このときに狐を埋葬した地が当時の築山稲荷であり、周囲は「築山」と呼ばれました。
のちに築山稲荷の隣に、件の皇女が尼となり開山したのが総持尼寺と言われていますが、総持尼寺の事実上の創建は後に述べる高氏のものでしょう。
この築山稲荷のあった場所は、康生通南三丁目、現在の岡崎康生郵便局の辺りとなります。
総持尼寺
時は下って室町時代、足利将軍家初代・足利尊氏の右腕でありながら、後に反目した高師直の姪、妙阿(みょうあ)が、滅ぼされた一族の菩提を弔うとして、自分の領地に菩提寺をつくることを足利幕府に申請、受理されました。これが総持尼寺で、江戸時代末まで、近隣でも別格の由緒を持つ尼寺として栄えました。
現在はNTTビルが建つ辺りが、総持尼寺のあった場所ともいわれています。
家康公の正室・築山御前が、駿河の今川氏のもとより人質交換で岡崎に迎えられ、まず居住したのがこの築山の地、総持尼寺の辺りだったといいます。そのため、住んでいた場所の名をとって『築山御前』と呼ばれているのです。
小説などでは、築山御前は冷遇され、さびれた山寺に幽閉されているように言われますが、実質は岡崎城から1㎞未満、現代人の私たちが徒歩でも10分程度の距離で、江戸時代になって岡崎城域が拡張されると『城内』となるような距離感です。
岡崎城の東の玄関口に相当する、由緒ある立派な尼寺の一角に、築山御前は身を寄せていたのです。
築山稲荷と総持尼寺のその後 -郵便局建設と中町への移転-
江戸時代には岡崎十二社のひとつに築山稲荷は数えられ、また総持尼寺も高い寺格を保ちますが、江戸時代が終わり、寺社分離が始まると、ひとつの扱いだった築山稲荷と総持尼寺はわかれ、どちらもゆるやかに寂れていきます。
大正時代になり、郵便局の建設計画が持ち上がると、土地の確保のため、総持尼寺と築山稲荷は移転を迫られます。強い反対もあったようなのですが、結局、どちらも岡崎市中町の山の上に移転されます。
歴史を軽んじたようなこの移転計画でしたが、皮肉にも、その後太平洋戦争の岡崎空襲の火の手からは無事逃れることができました。
現在の康生郵便局あたりが築山稲荷、NTTビルのあるあたりが総持尼寺だったといいます。この辺りは乙川が作った河岸段丘の境目で段差が激しく、郵便局とNTTの間には滝があり、子供たちの遊び場だったといいます。
築山の伝説も、この天然の激しい地形から生まれたものだと思うのですが、現在は綺麗に整地され、地名も築山から康生通南二丁目と名を変えて、かつての荘厳な寺社の面影も、築山御前の逗留地のなごりも全く残りません。
そして迎えた令和の時代、家康公が歩んだ人生をイメージした『天下の道』は、かつての寺社地、築山の地を通っていくのです。
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