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[ 歴史・石碑 ]

2023.02.08

大樹寺 ―生き抜け。厭離穢土 欣求浄土の旗のもと―

大樹寺は、家康公の先祖である松平家・そして徳川将軍家の菩提寺です。
重要文化財の多宝塔や障壁画、家康公の御先祖・松平八代の墓、家康公をはじめとする、江戸幕府歴代将軍の等身大の位牌、そして、ビスタラインと呼ばれる三門・総門を通して絵画のように眺望できる岡崎城の景観が有名です。

成道山 松安院 大樹寺は、文明7年(1475)、松平4代親忠が創建した浄土宗の寺院で、本尊の一光千体阿弥陀如来像は平安末期の作と言われます。

応仁元年の井田野合戦における戦死者の供養のため、家康公の先祖である松平家四代・親忠は、千人塚と西光寺(岡崎市鴨田町向山)、そして、文明7年(1475年)自身の館跡に大樹寺を建立しました。

寺号の「大樹」は征夷大将軍の唐名であり、大樹寺とは「将軍寺」という意味にとることができます。恐れ多いと言う松平親忠に、開山の勢誉愚底上人は「松平家から、のちのち将軍が出ることを祈願すればいい」と答えたそうです。

一地方の寺院に将軍寺とは、大げさともとれる命名ですが、親忠の五男は出家して超誉存牛と名乗り、大樹寺の住持を勤めた後、京都にある本山・知恩院の二十五代住職となって、知恩院と天皇家との結びつきを深くしています。
のちに大樹寺には後奈良天皇より勅額(天皇が直筆した寺号の額)が下され、現在も三門の扁額として掲げられているなど、松平家は政治の中枢であった京と結びつく努力も惜しまず、『一族から将軍を』とは全く手の届かない夢ではなかったのかもしれません。

そして親忠より5代あと、松平家9代の家康公は『徳川』と名を改め、江戸幕府初代将軍として立つこととなるのです。

大樹寺と家康公を繋ぐエピソードとして有名なのは、『厭離穢土欣求浄土』を巡る逸話です。

(1560)、19歳の松平元康(後の家康公)は、駿府の今川義元の元で成長し、今川方の武将として、尾張の織田信長と戦うため、危険を顧みず大高城に入城、そこで、桶狭間の戦いで義元が討死したことを知ります。
織田軍の追撃を避け、必死に岡崎まで逃げ帰った元康とその家臣たちでしたが、大樹寺に入ったところで多くの敵兵に包囲されてしまいます。
 
戦況に絶望した元康は、見苦しく敵に殺されるよりも……と、先祖である歴代当主の墓の前で、潔く自ら腹を切ろうとしました。

そんな元康を止めたのは、後に大樹寺の13代住職となる登誉天室上人です。登誉上人は、「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」の教え……戦国乱世を浄土のような泰平の世にするべし……と説き、元康を思い留ませると同時に、為政者として理想を描くことの大切さを伝えました。

【どうする家康★記念連載】第五回 厭離穢土欣求浄土 家康公、岡崎への帰還

(寺に大切に伝わる登誉上人像 特別に許可を得て撮影されたもので、通常は撮影禁止です)

『厭離穢土欣求浄土』の教えを受け思いとどまり、生き残ることを選んだ元康ですが、周囲は依然、敵兵に囲まれています。元康にはわずかな手兵しかいません。
そこに、怪力自慢の祖堂和尚が撃って出ました。2mを超える長身だったという祖堂和尚は、総門を閉じていた巨大な角材『かんぬき』を引っこ抜いて振り回し、敵兵を蹴散らします。武装した寺僧たちが元康のために奮戦。多くの犠牲を出しながらも敵兵を撃退しました。

こうして危機を乗り切った元康は、無事、岡崎城へ帰還。「厭離穢土欣求浄土」は、家康公終生の座右の銘となり、戦いの時には旗印として高々と掲げられました。
家康公は志を新たに、戦国武将として乱世へ一歩を踏み出すのです。

有料拝観の大方丈の奥には、この登誉上人、祖堂和尚の肖像や、家康公の救い主として神と祭られたかんぬきなど、大樹寺と家康公の深い関係を示す品々が拝見できます。

(有料の特別拝観で入ることができる位牌の間 特別に許可を得て撮影したもので、通常は撮影禁止です)

家康公は75歳、駿府城で臨終を迎えましたが、『位牌は三河の大樹寺に』と遺言したといいます。

現在大樹寺には、家康公の身長と同じ高さの、159cmの位牌が安置されています。
そして、家康公の位牌が等身大で寄進されたことにより、続く江戸幕府歴代将軍の位牌も等身大で作られるようになりました。ずらりと並ぶ将軍たちの位牌は圧巻です。

その他、江戸時代に作られた生きているように精巧な家康公の木像、二代将軍秀忠と、正室・崇源院(江)の位牌が、ひとつの厨子に仲睦まじく並ぶ光景も拝見することができます。

大樹寺境内で最も古い建物は、南西に建つ多宝塔で、重要文化財に指定されています。
この多宝塔は、天文4年(1535)に7代松平清康(家康公の祖父)が伽藍を再興した時から残るもので、建物内の柱には、当時の墨書きが残っているそうです(内部非公開)
この建物は、家康公が存命中から残る唯一の建物であり、先に語った歴史の目撃者でもあります。直線と曲面が織りなす優美な姿を、家康公もきっと美しいと思ったことでしょう。

3代将軍徳川家光は、大樹寺を徳川将軍家の菩提寺として、寛永13年(1636)から大造営を行って寺観を整えました。現在の三門、総門、鐘楼はその時建築されたもので、愛知県指定文化財です。特に、三門は県下最大級の重層門で、幕府の棟梁が係わった質の高い貴重な遺構で、松平・徳川家の菩提寺としての威厳を示しているようです。

この造営の際に、本堂、三門、総門、そして3.1km先の岡崎城天守が一列に並ぶよう伽藍が配置されました。
三門から総門を通して岡崎城を眺めると、まるで豪華な額縁に収まった絵画のように、岡崎城天守を眺めることができます。
家康公の魂が生まれ育った岡崎城をいつでも見られるように……と整備されたこの光景はビスタラインと通称され、大樹寺と岡崎城の間に高い建物を建ててはいけない、という市民の高い志で長年守られた風景です。
現在では、市の条例によってこのビスタライン上の建築は制限されており、ビスタラインと交差する道路の端には『ビスタライン明示鋲』という目印が置かれています。

【散策コース】大樹寺と岡崎城をつなぐ星たち -”地上のビスタライン”を辿るまちあるき-

(複製された襖絵 通常は撮影禁止です)

安政2年(1855)の火災で、惜しくも主要堂宇を失った大樹寺ですが、2年後の安政4年(1857)には本堂や大方丈などの建物が再建されました。

大方丈は、将軍や、東海道を行く大名が参拝するための貴賓室として使われました。
5万石以下の大名は『鉄線の間』35万石までの大名は『牡丹の間』35万石以上は『鶴の間』と身分によって厳密に分けられ、ふすまの絵柄の名で通称されています。
その奥には、一段高くなった将軍専用の『将軍の間』と、将軍の供の者が控える控えの間が、最も華麗に描かれていました。

このふすま絵は、幕末期に活躍した復古大和絵師・冷泉為恭(岡田為恭)の筆により描かれたもので、この大樹寺のために、わずか半年で145面も描きあげられた大作で、重要文化財に指定されています。
このふすま絵は保管のため、大方丈から外されていましたが、近年、高画質で複製されたふすまが入り、将軍を迎えた荘厳なしつらえが鮮かに再現されました。

家康公の命の危機は何度もありますが、桶狭間の戦いの今川方の大敗北という絶望的な状況から、『厭離穢土欣求浄土』の旗のもと、なんとか生き抜き、泰平の江戸時代をつくるきっかけとなったのが、一族から将軍を出すことを悲願とした大樹寺であるというのは、とてもドラマチックです。

そして、臨終において位牌を置くことを遺言したこと、孫の三大将軍家光が、この寺に眠る家康公の魂が、生誕地岡崎城を臨めるようにとビスタラインを整備したこと、その眺めを現在の岡崎市民が守っていることなど、祖先が描いた夢と願いは家康公の手で実現されました。
その泰平の祈りは子孫、そして現代までつながって、そして、この大樹寺で私たちが祈ることで、その願いの力は未来へと送ることができるように感じます。

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詳細

住所 〒444-0015 愛知県岡崎市鴨田町字広元5‐1
電話番号 0564-21-3917
営業時間 9:00~16:00(拝観受付は15:30まで)

料金 ■宝物殿・大方丈拝観
大人400円、障がい者350円、小中学生200円、幼児無料。団体割引(15名以上)一人350円 ※当面の間、収蔵庫拝観休止

令和5年1月1日より、文化財拝観の拝観料を改正させていただきます。
大人1人 500円 小中学生 1人 300円 団体15名以上 ひとり400円