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[ 歴史・石碑 ]
2021.08.13
しかみ像 -家康公の苦渋の肖像-
岡崎公園、三河武士のやかた家康館の南側にある『しかみ像』は、家康公の石像です。顔を歪め、ほお杖をつき、膝を抱えた姿は、どこかユーモラスにも見えます。
家康公の三大苦難のひとつ、三方ヶ原の合戦で、武田信玄の軍勢から命からがらに敗走した家康公は、負けたばかりの惨めな己の姿を絵師に描かせ、常に手元に置いて、自分のおごりへの戒めとしたという。
そんな逸話を持つ『徳川家康三方ヶ原戦役画像』を立体化した石像です。
家康公の遺訓のなかの「勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る」という思想を体現し、失敗の中から反省と学びを忘れない、家康公の人間性を表しています。
徳川家の先祖・松平家発祥の地松平郷の白御影石から、岡崎市稲熊町の彫刻師が制作、2007年11月、徳川記念財団理事長の徳川恒考氏より岡崎市に寄贈されました。
しかみ像は家康公が描かせた肖像画か?という疑問符
しかみ、とは顔をしかめた様相、しかめ面のことを言います。大敗北して城へ逃げ帰った憔悴した表情という、普通の肖像画では見られない、生きた家康公の姿を写した図案として注目されてきました。
負けたばかりの惨めな己の姿を絵師に描かせ、常に手元に置いて、自分のおごりへの戒めとした』
しかし、この『徳川家康三方ヶ原戦役画像』を保管、管理する徳川美術館の学芸員の方の論文により、長らく世間で信じられてきたこの逸話に疑問符がつきました。
徳川美術館の記録では、江戸期においてこの絵にそういう逸話は残されていないこと、三方ヶ原合戦の時のものでなく、しかもおそらく江戸時代になってから描かれたものであるということでした。
逸話の伝聞と家康公のイメージ
この逸話は、昭和初期に徳川美術館が開館する際に、尾張徳川家19代・徳川義親氏が新聞社の取材で、『尾張家初代の徳川義直が父・家康の苦難を忘れないように描かせた』と説明したことが始まりのようです。徳川美術館の宣伝のためにやや大げさな逸話をつけたのか、当時実際にそう思われていたのかは定かではありませんが、取材中の世間話的なやりとりが発端に思えます。
それが、山岡荘八氏の小説『徳川家康』のヒットなどで定着した、艱難辛苦を乗り越え理想の為政者となる家康公のイメージとよく調和し、いつの間にか、「家康公自ら描かせた」「生涯手元に置き座右の銘とした」と変化して、『泣くまで待とうホトトギス』と同じように、家康公の性格として、忍耐強さや奢らない性質を語る逸話として有名になり、徳川美術館でも昭和三十年頃には、正式な逸話として、展示の説明や図録に使われ、公式な逸話と語られるようになったようなのです。
逸話とは人の思いが伝えるもの
しかみ像のこの逸話について、講演や論文での発表だったため、数年前では知る人ぞ知る話だったのですが、昨今では『あれは嘘だった』と言われることが多くなり、TVや新聞でもそう伝えられることも増えました。実際にこのしかみ像石像や『三方原戦役画像』の前で、この話は嘘だったんだよと語りあっている姿もお見かけします。
経緯だけ切り出すと確かに、存在しなかった逸話ではあるのですが、この物語がこれだけ支持された背景には、家康公という人のイメージに、負けてなお雌伏の時を越えてついに打ち勝ったというドラマ性を求めた人々の思いがあるのでしょう。
岡崎公園のしかみ像に込められた思い
この像の贈呈式で、徳川宗家18代、徳川記念財団理事長の徳川恒孝氏は、「負け戦をステップにして次へ進んだ姿」であり、像の意義を子供たちに話してもらえるとうれしいです、と語ったそうです。
家康公が未曽有の大敗北を反省し、敗れた自分の惨めな姿を描かせて、終生身近に置き、座右の銘とした。
現代の私達が、この逸話を『嘘』と断ずるのは簡単です。けれど、そこまでの経緯や、史料的根拠をよく理解して、そのうえで、昭和の時代から半世紀わたって語り継がれた『しかみ像の物語』として、その物語を語った人々の思いもともに、歴史に残しても良いものなのではないかと思います。
また、このしかみ像の逸話を『嘘』とするならば、同時に語られることが多い、
「家康公は三方原の戦いで逃げるときに大便を漏らした」
という話も同時に、『嘘』とばっさり否定して欲しいものです。江戸時代までの記録には一切、こんな話は残っていない、おそらくは後世の創作なのですから……
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