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[ 撮影スポット ]

2025.01.01

【康生さんぽ】岡崎空襲で焼け残った奇跡の赤門?!徳川四天王「本多忠勝」の菩提寺・西岸寺に大注目!

まちの中心にある公園「籠田公園」から中央緑道を通って、乙川の方へ進んでいくと。
右手に現れるモダンな建物を「これ、何だろう?」と不思議に思ったことはありませんか?

そんな好奇心旺盛なアナタのために、本記事では魅力いっぱいのスポット・西岸寺(せいがんじ)について、ご紹介しようと思います。

西岸寺(せいがんじ)は、徳川四天王の一人、「本多忠勝公」の菩提寺。

西岸寺(せいがんじ)は、徳川四天王の一人、「本多忠勝公」の菩提寺。

現在はお酒落でモダンな造りの建物ですが、岡崎に最もゆかりの深い徳川四天王「本多忠勝公」の菩提寺であり、とても由緒あるお寺です。

見学したい方は、西岸寺さんにお電話で聞いてみましょう。
本多忠勝公の貴重なご位牌があると聞き、ぜひ見てみたいとご連絡した所、快く受け入れて下さいました。

こちらが本多忠勝公のご位牌です。
隣りにはずらりと、本多家代々の位牌が安置されており、とても厳かな雰囲気に息をのみます。

岡崎空襲で建物のほとんどを失ってしまいましたが、忠勝の位牌は奇跡的に難をのがれ、いまも大切に守られていました。

徳川四天王のうち、岡崎市に最も縁があるのは本多忠勝公です。

生誕は、西蔵前城(西蔵前町)。
幼少期を過ごしたのは、欠城(欠町)や妙源寺(大和町)。
岡崎城黒門内(岡崎公園駐車場入口付近)にお屋敷を構えて、岡崎市内を拠点としました。そして江戸時代に入ってからは、本多家が岡崎で6代藩主をつとめたのちに幕末を迎え、岡崎藩の最後の藩主は、忠勝の子孫でした。

西岸寺のある通り(天下の道)には、徳川四天王の4体の石像が設置されていて、名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」を手にした勇ましい忠勝公の姿を見る事ができます。

戦火を免れ、焼け野原の中でそびえたっていた「奇跡の赤門」

戦火を免れ、焼け野原の中でそびえたっていた「奇跡の赤門」

岡崎城を訪れる際、大名のみが通ったとされる通称 「岡崎の赤門(あかもん)」。
西岸寺に現存するこの「赤門」には、奇跡の逸話が存在します。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月19日未明から20日にかけて、アメリカ軍によって行われた愛知県岡崎市への大規模な空襲、通称「岡崎空襲」で、康生エリア一帯は甚大な被害にあいました。
西岸寺も本堂などが焼失した中、ただ一つ、「赤門」だけが被害を免れました。

一面焼け野原の中、変わらず赤くそびえたつその姿は奇跡のようだったそうです。
この門は現在でも、寺の南西の敷地に変わらぬ姿で立っています。

見学に訪れた際に、お寺の方から一冊の絵本をいただく機会がありました。
表紙には、「西岸寺の縁記 体験記録」と記されていて、太平洋戦争のさなか、西岸寺に現れた不思議な乞食僧のお話が描かれています。

お話を読み進めると、
岡崎空襲で目にした恐ろしい体験と、そんな中にあっても西岸寺のご住職とそのご家族を常に導いてくれたアミダ様の化身がおられたことなど、
当時まだ子どもだったご住職が実際に体験した、不思議なお話が記されていました。

空襲当時のリアルな様子を恐ろしく感じながらも、とても興味深い内容でした。

瓦を積み上げた不思議な壁も。

瓦を積み上げた不思議な壁も。

さて帰ろう、と西岸寺の裏手の道を歩いていると、建物の裏には無造作に大量の瓦が置かれていました。
何となく壁に違和感を感じてよくよく見ると、波を描いたような不思議な模様の壁は「瓦」を積み上げて作られています。

瓦が大量に余っていたから作ってみた、というおおらかな理由には笑ってしまったけれど、ほのぼのと話してくださる温かい雰囲気に、アミダ様が目を掛けたくなるのも納得してしまいます。

今回は、歴史あり、奇跡あり、面白スポットありの西岸寺さんの魅力をご紹介しました。
籠田公園から徒歩で1分ほど。
興味のある方は、ぜひ見学してみてはいかがでしょうか。

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この記事で紹介されたスポット

西岸寺

康生通南 浄土宗、お寺

神社・お寺

TEL : 0564212055

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瓦でできた壁(西岸寺)

康生通南 瓦

撮影スポット

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赤門(西岸寺)

康生通南 寺

歴史・石碑

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徳川四天王像 本多忠勝像

中央緑道 徳川四天王像、本多忠勝

歴史・石碑

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