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[ 神社・お寺 ]

2021.02.12

大林寺(松平清康、広忠、清康夫人春姫の墓)

1493年、岡崎城主松平信貞によって明大寺町に建立されました。
1530年に家康公の祖父松平清康が守りの拠点として現在の位置である岡崎城の北に移設したとされています。
江戸時代には、東西130間余、南北100間余、東と南は城内、西は肴町(魚町)、北は木町(材木町)にまでおよぶ広大な境内を有していました。

境内には、家康公の祖父を始めとしたゆかりの人物たちのお墓が。

境内には、松平清康、広忠、清康夫人春姫の墓があるほか、松平氏入城以前の岡崎城主西郷頼嗣、信貞の墓があります。

獅子頭(大林寺内)

獅子頭(大林寺内)

同じく大林寺に残された話題をひとつ。やはり墓地の一角に「松平廟」があります。家康公の祖父・清康と最初の夫人である波瑠姫、そして家康公の父・広忠の墓が並んでいますが、その真ん中に奇妙な形の岩が置いてあります。獅子の頭のような形をしていますので、「獅子頭」と呼ばれています。 これ、実は竹千代(家康の幼名)が家来に命じて岡崎城から運ばせたものだそうです。 六歳で人質に出された竹千代は、はじめ田原の戸田康光によって尾張の織田氏に送られ、八歳の時に取り戻されて再び駿府に向かたのでした。しかしこの間に広忠は殺され、竹千代は幼い心を痛めたのでしょう。 「大きくなって立派な大将になり、岡崎城に戻った時に父の墓を建てる」と決意し、その場所のしるしにと、家臣岩を運ばせたのです。それがこの獅子頭だと伝えられています。実際に触れてみてください。竹千代のパワーをもらえるかもしれませんよ。

赤穂浪士の墓(大林寺内)

赤穂浪士の墓(大林寺内)

大林寺墓地の一角に、赤穂浪士討ち入り譚で有名な「矢頭右衛門七」の墓があります。右衛門七は大石内蔵助の息子、大石主税と同年代の、浪士たちの中では最も若いメンバーでした。もともと右衛門七の父親は赤穂藩の貧乏下級武士であり、浅野家お取潰しの後は大坂に出て極貧生活を強いられます。貧しかったとは言え、志は高く、父は懸命に働き、右衛門七も良く勉学に励んでおりました。しかし世間の風は冷たく、生活はますます困窮を極め、父は病に倒れ、右衛門七の必死の看病にもかかわらずこの世を去ってしまいます。残された右衛門七は母と妹の面倒を見ながら、父の遺志を継ごうと決心しました。それは主の仇、吉良上野介を討つ事だったのです。そして討ち入り決行。浪士たちは皆切腹と相成ったのですが、この時右衛門七がお預けになったのが、岡崎藩水野家の芝屋敷でした。見事切腹をして果てたこの若者の死を悼み、介錯をした 杉源助が地元の岡崎大林寺に葬ったと伝えられています。

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大林寺

詳細

アクセス:
名鉄「東岡崎駅」より名鉄バス康生町経由大樹寺行他「康生町」下車徒歩10分、愛環「中岡崎駅」より徒歩14分

WEB
https://okazaki-kanko.jp/point/501

この記事で紹介されたスポット

大林寺

魚町 家康公祖父の墓、赤穂浪士

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TEL : 0564217371

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