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[ 歴史・石碑 ]
2022.02.04
お久しぶりです。いま、ここにいます。 -田中吉政像の現在-
かつて、籠田公園から伝馬通りを挟んだ向かいの交差点にあった、一つの石像。
田中吉政像と書かれた、着物姿の穏やかそうな紳士が座っていた石像を覚えている方も多いのではないでしょうか。
『天下の道』の工事とともに姿を消したこの像は、どこへいったの?
安心してください。ちょっとお引越ししたけど、元気です。
ついでに、田中吉政がどういう人だったのか、少し聞いていただけませんでしょうか?
中央緑道にあった田中吉政像
平成22年(2010)3月、岡崎の伝統的工芸品、石製品産業のPRと、『二十七曲り』を歴史観光資源として推進することを目的に、中央緑道の北端、籠田公園の道向かいに設置されたのが、『田中吉政像』です。
有名な徳川家康公でも本多忠勝でもなく、岡崎のまちづくりの、そして、岡崎の石づくりの象徴として、田中吉政という人が選ばれました。
中央緑道に設置された理由は『籠田総門や惣掘(田中掘)跡地付近にあり、当時、田中吉政がここから東海道を城郭内に引き入れた場所であり、また、市道伝馬町線に面し、広く市民に周知できるなど、歴史上の意義がある』とのこと。
籠田公園の前の交差点という場所で、ちょうど田中吉政が岡崎城主だった時期と同じくらいの10年間、まちの顔、心象風景として鎮座していました。
田中吉政という名は知らなくても、この石像に覚えがある方も多いと思います。
ふたつのまちづくり
田中吉政は、天正18年(1590)から慶長5年(1600)年まで、岡崎城主だった豊臣武将。
家康公が本領三河を中心とする五カ国を離れ、関東移封、江戸城に入った後、徳川家のいなくなった岡崎の城主となった人物です。
豊臣系の大名でしたが、慶長5年の関ヶ原の戦いでは、徳川に味方して東軍として参戦、石田三成を捕縛した功で加増され、筑後柳川に転封しました。
吉政の岡崎のまちづくりは十年。
矢作川の治水と架橋、岡崎城郭を大きく拡張して堀で囲み、東海道をその城下に引き入れ、『二十七曲り』と呼ばれる屈曲した道筋に変え、東海道でも屈指の城下町の基礎となりました。
発展した城下町・宿場町は、江戸幕府が無くなってもその経済力を保持し、近隣でも有数の商業都市となりました。
また、天守台など、岡崎城の最も古い石垣は、加工しない自然石を巧みな技術で組み上げた、吉政城主時代に積まれたものなのですが、その時に集められた職人が伝えた技術が、現在の岡崎の石工業の基となっているとも言われています。
優しくも厳しい
そんな田中吉政の、ひととなりはどうでしょうか。
岡崎時代の吉政は、自ら領内視察し、馬を降りて道端で手弁当を食べながら、領民と語りあったという、気さくで人当たりの良い城主の姿が伝えられています。
一方、多くの朱印地(寺社に年貢を納める領地)を持つ寺社には苛烈で、市内のあるお寺では、吉政がその寺を潰すために燃やそうとした、焦げた聖徳太子像が伝わっていたり、抵抗した寺院勢力の小規模な一揆が勃発しています。
大林寺(一説には大樹寺)を移そうとした際には、念仏が耳の奥で鳴り続けて眠れなくなり、断念したという話もあります。
各地の寺院を集めて、板谷町付近に、寺町を作る構想もあったのですが、三河七ヵ寺に声をかけても、移転してきたのは一寺だけ、しかものちのち、岡崎城に宿泊した家康公が「鐘の音がうるさい」と不機嫌になったため、結局、別の場所に移転させられたという話が残っています。
この構想が成功していたら、現在の岡崎公園の西側に、風情ある寺町が形成されていたのかもしれません。
御旗公園へ
平成22年(2010)3月に設置された、田中吉政像。この、田中吉政の石像を作られた石屋さんに、直接お話を伺ったことがあるのですが、岡崎のいしづくりの祖といわれる田中吉政の石像を請け負ったことは、自分が手掛けた仕事の中でも特に印象深い……と誇らしげに仰られていました。
硬い御影石から掘り出された像でありながら、柔らかさを感じる曲線で表現された、厳しくもどこか温かみのある肖像は、そんな崇敬の心からうまれたものなのでしょうか。
そんな田中吉政像ですが、2020年9月、中央緑道改修工事(天下の道)に伴い、住み慣れた籠田の町を離れることとなりました。いわば、吉政像令和の国替え。
新しい住まいは、材木町の御旗公園。
御旗公園はかつて、敷地の北側が惣掘(田中掘)であり、発掘調査も行われて、田中堀の全容を解明するための発見もあった場所であり、10mほど南には、東海道二十七曲も東西に横断しています。
田中吉政を迎えるのに適した場所だと思います。
会いにいきませんか?
田中吉政が岡崎城主だったのは、わずか10年。
家康公が江戸に転封してから、関ヶ原の戦いまでという短い時間でしたが、天守と石垣、堀、矢作橋、そして二十七曲がり、田中吉政のデザインしたまちづくりは、あるものは継承され、あるものは姿を変えながら、いまも受け継がれています。
『二十七曲り』をはじめとするまちづくり、そして、石製品産業を岡崎にもたらした人物として、その功績を広く市民に周知するために設置された田中吉政像は、静かな住宅街の片隅にいまも穏やかに佇んでいます。
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