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[ 企画 ]
2023-07-01
【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち⑦
【八丁味噌】は、米麹や麦麹を用いず、原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆みそで、江戸時代初期より愛知県岡崎市八丁町(旧八丁村)で造られることから八丁味噌と呼ばれるようになりました。
地元で古くから造り伝えられてきた豆みそを、岡崎で生まれた徳川家康公が珍重し、幕府を開くと同時に江戸に伝えて全国に広まったとする説もあります。
この、岡崎が誇る伝統調味料は、長い歴史の中で多くの人々に親しまれてきました。
カクキュー八丁味噌の史料室、及び史料館には「荷物発送簿、領収書、払込通知書」等、多くの資料が残っています。その中で、明治期から昭和期にかけて八丁味噌を愛用した著名人たちを、資料写真と共に「カクキュー八丁味噌公式サイト」より引用してご紹介します。
土屋光春(つちやみつはる)
1848年(嘉永元年)~1920年(大正9年)岡崎藩士出身。男爵。陸軍大将。岡崎市名誉市民。
1869年(明治2年)に最後の岡崎藩主本多忠直が藩校(允文館・允武館)を設置しました。允文館は学問を、允武館は武芸を教えました。本多忠直に仕えた土屋は役人としてこれに関わりました。材木町に「岡崎藩校允文、允武館跡」の石碑が建立されています。
日清・日露戦争では戦功により男爵を授けられ陸軍大将に昇進しました。
1915年に「徳川家康、本多忠勝両公三百年祭」が岡崎市で開催されました。土屋は祭典総長を務めました。
1901年に本多忠敬は東京遊学の若者のために本郷区森川町の旧藩邸に学生寮舎の「三河郷友会」を設置し援助をしました。晩年土屋は会長として活躍し郷土の人材育成に力を注ぎました。
カクキュー史料室には土屋宛に味噌をお送りした記録や土屋からのハガキをはじめ「徳川家康・本多忠勝両公三百年祭」「允武会」「三河郷友会」の関係史料が残されています。
徳川家(とくがわけ)
~徳川家達~
1863年(文久3年)~1940年(昭和15年)
東京都出身。徳川宗家16代当主。従一位大勲位公爵。
貴族院議長。日本赤十字社社長。
松平家・徳川将軍家の菩提寺である大樹寺位牌堂入口には家達による書が掲げられています。
又、岡崎公園の東照公遺訓碑の題字も家達によるものです。
カクキュー史料室には、昭和初期に自宅宛に味噌を送った記録が残っています。
自宅は東京都千駄ヶ谷。
又、1918年(大正7年)の明治神宮奉賛会、連合国軍隊慰問協賛会の資料なども残っています。
2015年(平成27年)は徳川家康公顕彰四百年という記念の年を迎え、岡崎市では多くのイベントが開催されました。
内藤卯三郎(ないとううさぶろう)
1891年(明治24年)~1977年(昭和52年)
神奈川県出身。物理学者。教育者。俳人。
紺綬褒章受章。岡崎市名誉市民。
愛知学芸大学(現・愛知教育大学)の初代学長として教育文化の振興や岡崎市民憲章制定委員長として市政の進展に尽力されました。また、岡崎ロータリークラブの良き指導者としても活躍され、ロータリアンの18代早川久右エ門と親交が深く、当時の資料が残されています。
岡崎市内には浄瑠璃姫と源義経の悲恋伝説が多く残されています。そのひとつに姫が平泉に向け旅立つ義経との別れをはかなみ、身を投げたと伝わる浄瑠璃ヶ淵に、内藤卯三郎の句碑「散る花に流れもよどむ姫ヶ淵」が建立されています。
カクキュー史料室には昭和時代に内藤卯三郎の御用命によりお客様宛に味噌を送った記録が残っています。
新渡戸稲造(にとべいなぞう)
1862年(文久2年)~1933年(昭和8年)
岩手県盛岡市出身。農学者・教育者・国際連盟事務次長。
1984年(昭和59年)に発行された五千円紙幣の肖像としても知られる新渡戸稲造は、札幌農学校(現在の北海道大学)時代にクラーク博士の教えを受けキリスト教に入信。志賀重昂・内村鑑三と机を並べ交友を深めました。
英文で名著「武士道」を出版しました。やがて各国語に訳されベストセラーとなりました。
東京帝国大学教授・東京女子大学初代学長などを歴任されました。
1915年(大正4年)に大正天皇即位の際の大嘗祭悠紀斎田が愛知県岡崎市で催行された際には、式典に新渡戸稲造御夫婦も参列されました。
カクキュー史料室には昭和初期に、新渡戸稲造の自宅宛に味噌を送った記録が残っています。自宅は東京都小石川区。
又、1930年(昭和5年)にカクキュー18代早川久右エ門の兄が新渡戸稲造から賜った修了證書が残されています。
丹羽文雄(にわふみお)
1904年(明治37年)~2005年(平成17年)
三重県出身。小説家。
1977年(昭和52年)文化勲章受章。文化功労者。
住職の長男に生まれ僧侶となりましたが、生母をモデルとした「鮎」が文壇で注目され作家生活に入りました。「親鸞」「蓮如」等、宗教者を描いた作品も多く残しました。
同人雑誌「文学者」を私費で支え瀬戸内寂聴、新田次郎ら後進の育成に尽力しました。
ゴルフを愛した人として知られ文壇にゴルフを広めました。
カクキュー史料室には昭和時代に、丹羽文雄の自宅宛に味噌を送った記録が残っています。自宅は東京都武蔵野市。
又、明治、大正時代の注文書や振込記録も残されています。
橋本増治郎(はしもとますじろう)
1875年(明治8年)~1944年(昭和19年)
愛知県岡崎市出身。技術者。実業家。
岡崎市名誉市民。日本自動車殿堂者。
自動車国産化の先駆者。国産第一号「ダットサン」の生みの親。
日産自動車の前身である快進社(日本初の自動車工場)を1911年(明治44年)に創設。
設立出資者の田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字D・A・Tと脱兎(素速い)にかけダット自動車と名付けられました。
カクキュー史料室には大正時代の年賀ハガキや昭和時代の味噌の送り状等多くの資料が残っています。
「カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち」は、いかがでしたか?
〇土屋光春(陸軍大将)
〇徳川家(日本赤十字社社長など)
〇内藤卯三郎(物理学者・俳人)
〇新渡戸稲造(農学者・教育者・国際連盟事務次長)
〇丹羽文雄(小説家)
〇橋本増治郎(技術者・実業家)
今回はこちらの6名の著名人をご紹介させていただきました。
岡崎公園でいつも目にする「東照公遺訓碑」が徳川家達によるものだったことが興味深く思えました。ちなみに、台座になっている亀に似た生きものは「贔屓(ひき)」という中国の伝説の生き物だと、歴史に詳しい方に教えていただきました。亀ではないことに驚きです!
徳川家の皆さんが、家康公が庇護した産業である「八丁味噌」を変わらず愛用していたことが分かり、岡崎という地への愛着を感じる回でした。
次回もお楽しみに。
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【連載】カクキュー八丁味噌を愛した著名人たち⑦
- 時間
- ■売店営業時間 9:00~17:00 ■工場見学時間 10:00~16:00 (平日)毎時00分、(土日祝)毎時00分・30分に出発(12:30の回はお休み) ■フードコート 11:00~15:00(L.O.14:30)
- WEB
- https://www.kakukyu.jp/
- 問合せ
- 0564-21-1355
- その他
- ●定休日:12/31、1/1、1/2
●駐車場:40台
●行き方:名鉄 岡崎公園前駅より徒歩5分
愛知環状鉄道 中岡崎駅より徒歩5分
東名岡崎ICより車で10分
豊田東ICより車で20分
名鉄東岡崎駅よりタクシーで5分/バスで10分
JR岡崎駅よりタクシーで15分
東海道新幹線 三河安城駅よりタクシーで30分
この記事で紹介されたスポット
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①カクキュー八丁味噌