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[ 歴史・石碑 ]

2022.01.15

【どうする家康★記念連載】第一回 幻の英雄 家康公の祖父・松平清康

『どうする家康★記念連載』では、令和5年度大河ドラマの放送を記念して、徳川家康公の生誕地である岡崎の家康公と三河武士ゆかりのエピソードを連載していきます。

第一回で取り上げるのは、家康公の祖父・松平清康。

三河の英雄と呼ばれ、あと10年生きたら天下人になったと称された松平清康は、この岡崎のまちと、どういうに関わりがあるのでしょうか。そして、岡崎が家康公生誕地となった経緯を辿っていきます。

謎の人・松平清康

謎の人・松平清康

(写真は、大林寺 松平清康墓所)

 私が岡崎と松平・徳川家の話をする上で、いつも最大級の感謝を述べなければならないのが、今回取り上げる『松平清康』です。

清康は、徳川家の先祖にあたる松平宗家の7代目。家康公は松平家9代ですので、家康公の祖父」にあたります。
この清康こそ、『松平家の本拠地を岡崎に移した』人なのです。豊田市の松平郷に始まった松平氏は、清康より前の代では、本拠地を安祥城、現在の安城市に置いていました。清康が岡崎へ引っ越そうと思わななければ、今頃『家康公生誕の地』は岡崎ではなかったかもしれません。『岡崎で産まれた家康公』という話をするたびに、私はひそかに、祖父の清康にも感謝を捧げています。

混迷極まりない戦国時代の三河の地に、流星のように現れた若き英雄、松平清康は、その名声に反して、一次資料は驚くほどに少なく、発給文書の無さなどから、松平史に関わる人々からも『謎の人』と言われています。
今回は、その偉業を声高に称える大久保彦左衛門の『三河物語』での記述を中心に、その人生や岡崎との関わりをたどります。

清康の時代の岡崎

清康の時代の岡崎

(写真は、清康正室・春姫(波留姫)の墓)

永正8年9月7日(1511)年、安祥城で生誕した清康は、先代の父が隠居した大永3年(1523)、13歳という若さで家督を継ぎました。

翌大永4年(1524年)に、医王山と言われた山中城(舞木町・羽栗町)を、家臣大久保忠茂等の奇襲で一夜にして占領。現在の岡崎市域に進出します。そして、当時岡崎城城主だった西郷氏(大草松平氏)を退去させ、その娘・春姫(波留姫とも)を正室に迎え、城主として岡崎城に入城しました。

まだ少年ともいえる年頃の清康が、安城から岡崎へ進出した経緯は定かではありませんが、桜井の松平信定(父の弟、清康から見て叔父)との棲み分けや確執が理由なのではないかと推測されます。
その後、叔父の信定は、ある時は共に戦い、またある時は反目しつつ、東西三河の掌握と平定に勤しみます。

岡崎古城から岡崎城へ

岡崎古城から岡崎城へ

(写真は、オト・リバーサイトテラス内にある、明大寺古屋敷の史跡看板)

清康が入城した当時の岡崎城は、現在の明大寺町、名鉄東岡崎駅の北側、乙川の南岸にありました。通称、明大寺古屋敷や平岩城と言われる城館の跡地は、現在のオト・リバーサイトテラスの近隣です。

清康はここより西、乙川の北岸にあった砦を改修して、自らの本城とします。これが現在の岡崎城です。
さきの山中城攻めで一番の戦功をあげた大久保忠茂は、この新しい城下に市を開き、楽市としました。連尺商人という店舗を持たない旅商人たちが集まる市場は、現在でも『連尺町』と呼ばれています。

旧城のあった場所には、岡崎城の産土神として、六所神社を勧請。また、甲山寺や善立寺を、安城から現在の市街中心部に移転したのも清康でした。
寺社ができれば、門前に人も集まります。こうして、現在の康生周辺のまちの基礎が形作られていくのです。

天下を握る夢

天下を握る夢

(写真は、龍海院の瓦の『是』の字)

19歳となった松平清康は、不思議な初夢を見ます。左の手のひらに『是』という漢字を握りしめる、という夢でした。
この夢解きをしたのは、曹洞宗の僧侶で、当時、龍渓院(岡崎市桑原町)にいた模外惟俊でした。模外和尚は清康の夢を
「『是』の字を分解すると、日・下・人という字になる。つまり天下人。貴方の家、松平家から天下人が出るという吉夢である」
と解き、清康は感激。
六所神社の西側に、模外和尚のために、龍海院という寺を建立しました。そして腹心の酒井正親の菩提寺としたのです。

龍海院はこの逸話から別名『是の字寺』と呼ばれ、山腹の墓所には、酒井正親の墓所、後に、清康の息子広忠の継室となった真喜姫の墓所、清康の供養塔などがあります。

この年から清康は、東三河に進出し、破竹の勢いで平定していきます。

岡崎殿・清康の死

岡崎殿・清康の死

是の字の吉夢から6年、東西三河をほぼ手中に収めた清康は、先祖を供養する菩提寺・大樹寺の南西に、新たに塔を建立しました。

多宝塔と呼ばれるこの塔の心柱には「世良田次郎三郎 清康 安城四代 岡崎殿」と表記されていたそうです。先祖の菩提寺にこの塔を建てたのは、「世良田氏の安城松平家四代、岡崎城主の信康である」と、まるで、東西三河の覇者が、堂々と名乗りを上げるようです。
若き清康のモニュメントとなったこの美しい多宝塔は、同時に、清康が最後に残した、生きたあかしと言うべき記録ともなりました。

天文4年12月5日、尾張の織田信秀(織田信長の父)を攻めるべく、尾張森山(現在の名古屋市守山区)に出陣した清康は、陣中にて手違いにより、家臣に暗殺されてしまいました。享年25歳。『森山崩れ』と呼ばれる悲劇でした。

清康の死を受け、岡崎城には桜井松平家の信貞が入り、清康の嫡男・仙千代(松平広忠)は住処を追われ、父を殺された12歳の少年の、苦難の旅が始まるのです。

家康公の祖父への尊敬と崇拝

家康公の祖父への尊敬と崇拝

家康公が、偉大な祖父を偲んで建立したのが、善徳院随念寺(門前町)です。

清康(善徳院)の墓所は、市街地にありながら岡崎の街を見渡せる静かな山の中腹に、清康の妹であり家康公の庇護者であった久子(隨念院)の墓と並んでいます。

(墓所は非公開のため見学できません)

のちに江戸幕府二代将軍の時代になり、この随念寺は将軍家の先祖の寺として、幕府から庇護を受けました。
乙川から東海道を経由して伸びるまっすぐな参道は、上質な石垣と白土塀で守られるような石段を越えて、楼門へとつながっています。
本堂は外見は華美すぎず威厳をたたえ、内陣は荘厳、書院の装飾は、もし将軍が訪れても迎え入れられるだけの格式を備えています。
岡崎市内の幕府が主導した松平家関連の寺院のうち、この隨念寺だけが、焼失せず現代まで守り伝えられました。

そして、家康という名の『康』の字は、祖父である松平清康から頂いたもの。祖父への崇敬の念が込もっているのでしょう。

隨念寺 -家康公の祖父への敬愛-

清康から、そして家康公へ。

清康から、そして家康公へ。

三河物語は清康のことを、「あと10年長生きしていたら天下人になっただろう」と称えました。

著者の大久保彦左衛門は、清康存命中には誕生していない(彦左は家康公の長男・信康と同世代)ため、その覇業は祖父や父の世代からの伝聞でしかないのでしょうが、清康の下にいた三河武士たちが、彼にどれだけ憧れ、期待をかけていたのかを伺うことができます。
だからこそ、後に続く広忠、家康公にその夢と期待を託し、支えたのでしょう。

そして続く広忠は、岡崎城から失意の退去した後も、父の遺臣たちに守られ、岡崎に帰還後は、長瀬八幡宮(森越町)に新たに勧請した源太夫社に、父・清康を神として祭り、短い生涯を戦い抜きました。

大河ドラマ『どうする家康』が家康公生誕から始まるとすると、天文11年からとなり、清康は既に死去しています。しかし、家康公生誕以前の岡崎の情勢を知ることで、ドラマにおける松平家の立ち位置や事情を、より深く考察することができるのではないでしょうか。

記事中の写真撮影 けろっと氏

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【ご注意】隨念寺を参拝されるみなさんへ

詳細

隨念寺の「松平清康公墓所」は非公開のため、見学・撮影が禁止となっています。ご注意下さい。

この記事で紹介されたスポット

大林寺

魚町 家康公祖父の墓、赤穂浪士

神社・お寺

TEL : 0564217371

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龍海院

明大寺町 西三河三十三観音霊場

神社・お寺

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大樹寺

鴨田町 寺

神社・お寺

TEL : 0564213917

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オト リバーサイドテラス

上明大寺町 商業施設

商業施設

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隨念寺

門前町 ※松平清康公墓所は見学・撮影禁止です。ご注意ください

神社・お寺

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