146
[ 神社・お寺 ]
2022.05.27
【どうする家康★記念連載】第二回 岡崎を愛した苦難の人 徳川家康の父・松平広忠
令和5年度大河ドラマ『どうする家康』の情報が届き始めたこの頃ですが、『どうする家康★記念連載』ではその放送を記念して、生誕地である岡崎で、家康公と三河武士ゆかりのエピソードを連載していきます。
第二回の今回は、家康公の父・松平広忠。
故郷を追われ、岡崎に戻ることを懇願し、波乱にまみれた、松平家八代目当主の短い生涯を見つめてみます。
家康公の父、広忠が注目を集めたのは、山岡荘八の小説『徳川家康』でしょう。
この物語の序盤は、父・広忠と母・於大の方の、愛と別離が描かれています。その際、母・於大の方は聖母のような女性と描かれ、対比するように、父・広忠は、愚かで癇癪持ちの狂人のごとく描写され、自滅するように禍根で殺されました。
あくまで小説の中の出来事であり、この広忠の性格は全くの創作なのですが、説得力があるこの素晴らしい作品を元に、横山光輝氏の漫画版、大河ドラマ『徳川家康』の脚本が書かれ、そのたび広忠の悪印象は広まります。
昭和の時代に『家康公の父は愚かな人物』というイメージが浸透してしまったのです。
しかし、たとえば三河物語には『慈悲深く情けも哀れみも深い』とその人柄が表現され、家臣をとても大切に思う姿が描かれています。三河武士たちにとって、広忠は信頼できる理想の主君でした。
岡崎市内に、松平広忠の墓と呼ばれる供養塔は、いくつかあります。
大樹寺の松平八代の墓、法蔵寺、大林寺、広忠寺。そして松應寺。
ひとりの人物の『墓』が、一地域にこれだけたくさんあることは珍しいことです。
墓は、生きている人間が作るもの。この岡崎にはそれだけ、広忠を慕った人々がいたのでしょう。
少年広忠の流浪
(写真は法蔵寺の墓所。ひときわ大きい墓石が広忠墓。墓所のすぐ上には、家康公を神と祭る東照宮がある)
三河の英雄、松平清康の嫡男として誕生した広忠の運命を大きく揺るがす事件が起きたのは、天文四年。父清康が尾張への勢力拡大を目指し進軍した、森山(名古屋市守山区)で、家臣の手により暗殺されてしまいました。
突然の当主の殺害から始まった松平家中の混乱の中、幼少の仙松丸(後の広忠)は、大叔父である松平内膳に岡崎城から追い出されてしまいました。若干10歳にして、父と城を失った少年、仙松丸(後の広忠)は、諸国を転々とすることになります。
岡崎城を出た仙松丸は、家臣の阿部大蔵に連れられ、伊勢に渡り逗留。そこから駿河の掛塚へ向かい、15歳の秋、吉良(現在の西尾市吉良町)の吉良持広の仲介で、駿府の今川義元の後ろ盾を得て、「もろの城」(現在の西尾市室町と推測)に入りました。
広忠に心を寄せる家臣たちは、広忠と連絡を取り、松平内膳が城を離れたすきを見て岡崎城を奪い取り、広忠を迎え入れました。
憧れの岡崎への帰還
(画像は、桑谷町の広忠寺にある松平広忠の墓。
家康公と同じ日に産まれた異母兄弟の英新は誕生した日に出家。後にその事情を知った家康公が、彼の為に広忠寺を建立し、父の菩提を弔うように計らったという)
憧れの岡崎へ帰る道中の広忠の心境を、馬の上にいながら夢見心地で、鳥のように心だけ先に飛んでいったと『三河物語』は語ります。
多感な頃に父を失い、故郷を追われ、移り住んだ心中はいかばかりでしょうか。
こうして、岡崎城主となった広忠でしたが、岡崎に返り咲くために今川家の力を借りたことで、三河における今川家の勢力は大きく広がりました。2年ぶりに岡崎に帰還した広忠は、そのまま、三河の占領を巡る尾張と駿河の争いの渦中に放り込まれることになります。
於大の方との婚姻と、竹千代の誕生
(写真は大林寺の松平広忠の墓前にある、獅子頭という石。
家康公がいずれ立派な墓を作ると約束して、獅子の頭のような石を置いた、と伝承される)
松平家は、同じ三河で勢力を持つ、刈谷の水野忠政の娘、於大の方を正室に迎えました。三河の中で無駄に戦わぬよう、親戚関係という和睦を結ぶ政略結婚でした。
持参品のひとつとして、於大の方が水野家より『松平の家が栄えるように』と持ち込んだのが、綿花の種(と栽培方法)だったと言います。当時の木綿は高級品であり、この綿花が三河木綿の始まりというのですが、木綿糸は当時最先端の武器だった火縄銃の『火縄』の上質素材だったことを考えると意味深長です。
ちょうどその頃、尾張の織田信秀(織田信長の父)も勢力を広げ、互いに三河に侵攻。安祥城(安城市)を落とし、織田の三河での拠点としました。
その両者がぶつかった小豆坂の戦い。岡崎城から直線距離でわずか数キロの位置で戦いが起こったその年に、於大の方は子を授かり、竹千代……のちの家康公が誕生しました。
於大の方との離別
(写真は、龍海院にある、広忠の後室・真喜姫の墓)
織田家の勢力は日増しに増していくなか、於大の方の父・水野忠政が亡くなり、嫡男の水野信元が後を継ぎます。拡大する織田の領地と隣り合わせになった水野家は、織田につくことを選択。松平と水野は敵味方となり、兄である水野信元に呼び戻される形で、広忠と於大は離縁となりました。
この時、後の家康公である竹千代は数え年で3歳、満年齢ならば1歳11か月の時でした。おそらく、母の面影も覚えていない年頃だったでしょう。
その後、広忠は同じく今川方の戸田氏の娘、真喜姫を正室に迎えます。が、岡崎城二の丸(城主の住む区画)に入城しようとした真喜姫を、「この城は竹千代の城だから」と留め、別のところに住まわせたというので、竹千代と居なくなった於大の方に、ひとかたならぬ心遣いをしたのでしょう。
広忠と竹千代の離別
(写真は、広忠が創建したという魚町白山神社。松平家は安城に居た頃から、白山神への信心が深かった)
三河における織田と今川の戦いが激化するなか、今川義元は、その幼い竹千代を人質として駿府に住まわせるようにと広忠に命じました。
広忠の選択は、複数の説がありますが、定説としては、命令通り、駿府の今川館に送る最中、真喜姫の実家・戸田氏が織田方に裏切り、竹千代を奪って尾張熱田に送った……とされています。
織田に竹千代の命を握られた広忠でしたが、広忠は、今川方につくことを決めました。それは、嫡男である竹千代を捨てたも同然。窮地を救われた恩顧を貫き、三河を守るための苦渋の選択でした。
広忠のこの今川家への忠誠は賞賛され、岡崎は無事に今川の支援を受け、そして、広忠と竹千代が再会することは、もう二度とありませんでした。
松平広忠の死
(写真は大樹寺の松平八代の墓)
今川と織田の間で戦国の荒波に翻弄されながら、必死に岡崎を守ってきた広忠が亡くなったのは、天文18年3月6日。24歳という若さでした。
松平広忠の死因は、多くの記録上ではその死因は『病死』とされています。有名な暗殺説は、岡崎城主古記などごく少数の記録にしか上りませんが、旧岡崎市史、新編岡崎市史の両方は、諸々の状況を踏まえ、この暗殺説を採用しています。そのため、暗殺説はその後の定説となっていきました。
山岡荘八氏は、この広忠暗殺説を、小説序盤の格好の盛り上がりとして、史実にない『片目の弥八』と広忠の側室との恋物語を創作。また、広忠を、恨まれて殺されてもおかしくないように酷薄な性格に設定しました。松平広忠という人と、小説やドラマで初めて出会った人は、この物語の都合で悪者にされた広忠像を、まるで本物のように感じてしまったことでしょう。
しかし、三河物語などに表現された松平広忠の人物評は、家臣や三河の民にとても思いやりが深い、慈愛の領主として称えられています。
家康公の父への想いと松應寺
松應寺は、家康公がそんな、任愛に溢れた父の為に、自ら創建した寺院です。
父を失った8歳の時、自らまだ8才の竹千代は人質交換の末、駿府の今川家の人質となったため、わずかな時間の墓参のみ許されました。
久々に帰った岡崎で、家康公は、能見ヶ原に埋葬された父の墓に参り、手ずから小松を植えたと言います。竹千代が父に贈る精一杯の想いだったのでしょう。徳川の繁栄を象徴するように大きく枝を広げた松は数百年も枝を伸ばし続け、家康公が生涯大切にした墓所と、それを守る祈りの寺・松應寺は、徳川将軍家の先祖寺として江戸幕府の庇護を受け、将軍も墓参に訪れた要地となりました。
家康公が岡崎の父のもとで過ごしたのは、わずか6年。しかしその尊敬と愛情は、松應寺とその墓所に宿っています。
先代の急死という苦難から松平家を守った若き君主は、次の大河ドラマ『どうする家康』ではどう描かれるのでしょうか。
人質である竹千代が、亡き父の墓参に三河に帰るエピソードは、ドラマとしても取り上げられる可能性が高いのではないかと思っています。
私は、このドラマでは、岡崎を愛し必死に岡崎を守った、新しい広忠の姿に出会えるのではないかと、とても楽しみにしています。
146
詳細
文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。
写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterを中心に活動中。