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[ 歴史・石碑 ]

2023.01.15

【徳川四天王物語④】赤揃えで戦の先陣を駆けた「井伊直政(いい なおまさ)」

康生の新しいランドマーク、桜城橋。そのすぐ南側の『天下の道』に設置された戦国武将の石像は、徳川四天王と呼ばれた家康公の最も重要な家臣たちです。
 この記事は、corin『まちかど歴史話』として掲載された徳川四天王の特集記事を加筆再編集してお送りします。

 さて、今回は、徳川四天王の最年少・井伊直政。

 赤備えという真っ赤な具足を身にまとい、猪突猛進、大河ドラマ『女城主直虎』でも井伊家の御曹司として若く美しく苛烈な印象で描かれていました。

 戦に出れば味方と先陣を争い、その具足は常に傷だらけだったという直政のたどった人生を、見つめてみたいと思います。

苛烈な生涯

苛烈な生涯

(写真は井伊家の本領、井伊谷城(静岡県浜松市北区引佐町))

家康公よりも十九歳年下であり、親子ほどの年齢差のある井伊直政。その道のりは波乱の連続でした。
大河ドラマ『おんな城主直虎』で一躍有名になった名門・井伊家に、永禄4年2月19日、嫡男が誕生しました。幼名は虎松。

生まれた翌年、謀反の疑いで今川家に父を殺され、本人もまだ幼いうちに鳳来寺(愛知県新城市)に預けられ身を隠すという過酷な幼少期を送ります。その間、当主不在の井伊谷を守ったのが、おんな城主の名で知られる次郎法師(井伊直虎)でした。

今川が力を失い、代わって徳川家が遠江・駿河を統治すると虎松は遠江に帰還、このとき若干12歳。天正三年、家康公が鷹狩りに向かう道中に待ち構えて面会したといいます。家康公は、この少年を一目見て、並みの人物ではないと気づいたというので、素晴らしい容色だったのでしょう。

こうして徳川家に出仕した直政は、小姓として家康公のすぐ側で、政治や外交を学びました。翌年には初陣を飾り、天正十年に元服し、井伊家の正式な当主として直政を名乗ります。

(グレート家康公【葵】武将隊の井伊直政殿。史実を反映した孔雀の柄の陣羽織をまとう背中も凛々しい)

 そして、武田勝頼亡き後の、甲信地方を巡る北条家との交渉役として尽力した褒美として、直政は、赤備え部隊を与えられました。

赤備えは武田家の遺臣で、全ての装備を赤一色の派手に染め上げた、勇猛で知られた精鋭中の精鋭。まだ武功の少ない直政には過ぎた評価でした。

榊原康政をはじめ、古参の三河武士たちが皆、その実力を疑う中、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と戦った小牧長久手の戦いで、直政は赤備えを率いて敵の大将格である森長可を討ち取り、その名を知らしめたのです。

重圧に耐え、期待以上の結果を出した直政を称えて家康公が贈った、孔雀の羽根をあしらった陣羽織は、井伊家の誉として、代々大切に伝えられています。

徳川と豊臣の戦いは、局地戦では徳川の勝利に終わったものの、結局、旧織田家臣をまとめ関白の座についた秀吉に、徳川家は臣従することとなります。

上洛する家康公の安全保障として、秀吉は自分の妹を家康公に嫁がせ、さらに産みの母である大政所を人質として岡崎城へ送りました。

 岡崎城に用意された大政所の部屋の周りには、家臣により薪が積まれ、もし京に上がった家康公の身に何かあれば即座に焼き殺す、と脅されます。
命の危機に怯える大政所とその侍女たちを接待したのは、直政でした。
大政所の元に何度も訪れ、不自由はないかと優しく声をかけ、甲斐甲斐しく世話をしたそうです。
若く美形の直政に侍女たちは夢中になり、大政所も何度も直政を呼びつけたそうですから、地獄に仏、修羅場に美男子と言ったところでしょう。
家康公が無事京より帰還すると、大政所を警護し、大切に秀吉の元まで送り届けたのも直政でした。

 そして迎えた慶長五年(1600)関ヶ原の戦い。
 幼少の頃から見守ってきた家康公の四男、松平忠吉は二十一歳。素晴らしい青年に育った娘婿の初陣を武功で飾りたい、そして、この戦は徳川主導の戦いであることを世に知らしめるため、直政は忠吉とともに、赤備えの精鋭たちを率いて、深い朝霧の中を静かに進軍。先鋒の福島正則に独断行動を咎められると、『初陣の忠吉殿に戦場を見せたい』と言いくるめて先頭に躍り出たところで、西軍の宇喜多隊に突然遭遇。直政は慌てずに砲撃を命じ、これにより、天下分け目の関ヶ原の戦いは始まったのです。宇喜多軍を敗走させた後、島津軍への追撃は、直政も忠吉も銃撃を受けるほどの激しい戦闘でした。二人の活躍により、関ヶ原の戦いの東軍の勝利は、『徳川家康の大勝利』であることが、強く印象付けられました。

天下の道にある井伊直政の石像は、まさしくこの関ヶ原の戦いで、徳川の誇りとして先陣を切った直政の雄姿を現しています。
石像では、馬の首を省略することで、その覚悟の表情が良く見えるようになっています。

派手な甲冑と先陣という目立つ戦いをした直政は、猛将・島津軍との激突で銃撃を受け、負傷しつつも、戦いの後、忠吉が父・家康公との対面に付き添います。
直政は忠吉の戦いぶりを「やはり逸物の鷹の子は逸物と見えます」と称え、家康公は「上手な鷹師が付いてこそである」と直政を褒め、二人のいくさ傷に自ら薬を塗り、労ったといいます。

その戦での負傷、そして将軍家となった徳川政権の外交役としての激務は、直政の寿命を確実に削りました。

滅亡同然の井伊家を立て直し、一代で譜代大名の代表格にまで昇りつめた井伊直政は、関ヶ原の戦いの二年後の慶長七年、命を燃やし尽くすような四十二年の生涯を終えました。

(写真は龍潭寺(浜松市)の井伊家歴代の墓)


 家康公は晩年、二代将軍秀忠の正室宛に、子息の教育方針を指導した『神君御文』と呼ばれる手紙を送っています。
 その文章の中で理想の家臣のことをこう語っていました。


『何事も、正直な家臣を選んで家来にした方がいい。
井伊直政は、日頃は人に話させていて内向的な性格にも見えるが、
大切な時ははっきり意見を述べた。
特に、自分が間違っている時は、誰もいない場所で柔らかく善悪を伝えてくれる。
だからこそ、相談はまず直政にするようになった』


 たくさんの家臣を持った家康公ですが、その中でも天下人に仕える理想的な家臣像を思い描いた時、真っ先に浮かんたのは、少年の頃からまっすぐな瞳で仕え続けた、井伊直政の姿だったのです。

先の大河ドラマ『女城主直虎』で登場した菅田将暉氏の演じられた井伊直政は、少年期、家康公の小姓として資質を発揮して、20代の若く猛々しい姿で、初陣である小牧長久手の戦いに挑むところで物語が終わりました。

『どうする家康』においての直政は、家康公との年齢差から、登場は物語の中盤くらいになりそうですが、赤備えの活躍や大政所の接待、関ヶ原での雄姿など、たくさんの見せ場が予想されます。

史実にも残る伝説の美男子ぶりを、4K画面で拝見できることを今からわくわくしています。

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文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。

写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterを中心に活動中。

この記事で紹介されたスポット

徳川四天王像 井伊直政像

康生通南 徳川四天王像、井伊直政

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