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[ 歴史・石碑 ]

2023.01.15

【徳川四天王物語③】知勇兼備の武将と称された「榊原康政(さかきばら やすまさ)」

 康生の新しいランドマーク、桜城橋。そのすぐ北側の『天下の道』に設置された戦国武将の石像は、徳川四天王と呼ばれた家康公の最も重要な家臣たちです。
 この記事は、corin『まちかど歴史話』として掲載された徳川四天王の特集記事を加筆再編集してお送りします。

 さて、今回取り上げるのは、徳川四天王のひとり、榊原康政。
 知勇兼備の武将と呼ばれ、人品最も高しと称された榊原康政の生きざまに迫ってみたいと思います。

理(ことわり)の人

理(ことわり)の人

(多宝塔は大樹寺の建築物の中で最も古く、家康公の時代から遺る建造物)

 徳川四天王と呼ばれる武将のひとり、知勇兼備と称される榊原康政。
 家康公より六つ年下で、同じく徳川四天王のひとり、本多忠勝とは同い年になります。

 その清廉な人格を形成したのは、幼少の頃。生誕は上野下村城(現在の豊田市上郷町)ではありますが、次男に生まれたため、幼き頃から大樹寺に預けられ、修行していたそうです。当時の大寺院は学問の府。三河の浄土宗寺院の中核である大樹寺で、康政は智を磨き、儒学思想を身に着けていったのでしょう。
 幼少の頃、臨済寺の太原雪斎のもとで学問を修めた家康公は、寺育ちの理知的な若者を好んだようで、のちに家康公に仕えることとなる徳川四天王の井伊直政も、幼少の頃、鳳来寺で学んでいます。康政も十三歳で小姓として取り立てられ、岡崎城で家康公の側近くに仕えました。

(写真は一向一揆の戦闘があった上郷城址)

 そんな康政の初陣は十六歳の時。徳川三大危機のひとつである内乱、三河一向一揆でした。攻めたのは故郷ともいえる上野城。敵である酒井将監は榊原家の元の主であり、敵陣には実の兄が居たのにも関わらず、怯むことなく勇敢に先陣を切りました。


 初陣を初めとして、数々の戦いを勇猛果敢に戦った康政の活躍を、後の時代、新井白石は藩翰譜の中で

『或は城を攻め、或は野に戦ふ事、数を知らず。凡そ康政が向かふ所、打ち破らずといふ事なし』

とその武勲を称えました。家康公もまた康政を誇りに思い、元服にあたって自らの『康』の字を与えます。名の一字を頂くのは誉。康政にとって生涯の誇りだったことでしょう。

(写真は大正時代に建てられた榊原康政の生誕地碑)

 そんな康政の、人となりを物語る話があります。

 徳川家が武田勝頼を倒し、甲斐を領有した頃、旧武田家の配下であった『赤備え』という、赤一色の具足で揃えた屈強の部隊がいました。誰もが欲しがる武田の最強部隊。これを家康公は、まだ若い井伊直政の配下とすることにします。
 さて、これを聞いた榊原康政は、家康公の腹心の酒井忠次に、猛然と抗議します。

『赤備えを自分でなく、直政のみに付けられたのはどういうことか。ついては直政と刺し違える覚悟なので、本日は暇乞いに参りました』

 康政が激怒したのは、自分が赤備えを欲しかった訳では決してありません。
 直政が先の戦いでどう貢献したかをよく知ったうえで、手柄に釣り合わない過剰な褒美は、家康公のえこひいきではと判断。直政かわいさに目がくらんだ殿の目を、この一件で覚ましてみせると、命をかけて訴えたのです。

 少年の頃から康政を見ている酒井忠次は、康政の性格をよく理解していたのでしょう。そのうえで、「そんなことで殿を煩わせるな!!そんなことをしたら、お前の一族を皆串刺しにしてくれるぞ」と康政を一喝。赤備えは本来自分が貰うはずだったが、年寄りには身に余る。故に若く血気盛んな直政に自分が推薦した…と切々と説きました。
 道理が通る説明とその姿勢に、康政も納得してすんなりと引き下がったそうです。

 正しき道理を重んじ、不公平を嫌い、無私無欲の康政が、その持てる智と情熱を遺憾なく発揮したのは、小牧長久手の戦いです。
 天正十二年、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田信雄(織田信長の次男)に協力した徳川家康陣営が戦ったこのいくさで、康政は、徳川方の主張を書いた文書『檄文』を発しました。秀吉への悪口と言われがちなこの檄文ですが、羽柴方の信義なき様を描き、徳川の正当性を説き、諸武将に助力を働きかける文章が、美しい漢文で綴られていました。この小牧長久手の戦いは、局地戦では徳川四天王それぞれが大活躍し、一旦の勝利を得たのですが、その求心力となったのが、康政のこの檄文でした。
 『天下の道』の、国道一号線交差点から良く見える、一番目立つ場所にあるのが、榊原康政の石像ですが、この石像の康政が掲げているのがこの、羽柴秀吉を慄かせた小牧長久手の檄文なのです。
 その後、徳川家が大きくなっていくなか、家康公は康政の人柄と教養を深く信頼し、嫡男でのちに二代将軍となる徳川秀忠の軍学の教育を任せました。

(榊原康政の屋敷地をこのあたりに推測する説もある)

関東移封で徳川の本拠地が江戸に移ってからは、関東総奉行として、また秀忠の補佐役として側に仕え、江戸幕府の黎明期を支え、のちの二代将軍を支えました。
 そして迎えた関ヶ原の戦い。徳川本隊を率いた秀忠は上州攻めで手間取り、関ヶ原の本戦には合流できませんでした。腹を立てて秀忠に会おうともしない家康公に対して、同行していた康政は、全ては自分の責任であると責任をかぶり、秀忠に一切の落ち度はなく、一時の感情で次の徳川家を支える秀忠に恥を負わせることは、名を貶め、家中に混乱を招く愚かなことであると、涙を流して訴えました。主君への諫言は命がけの行為。康政のこの取り成しに、家康公は怒りを静め、秀忠との面会を果たしたそうです。

 近年の研究では、関ヶ原の戦いの徳川本隊の動きは予定範囲内であり、このエピソードは実情にそぐわないとも言われていますが、数百年の間、榊原康政の名と共に語られた逸話となります。

 関ヶ原の戦いのちに、井伊直政は秀忠に従事した康政を、この戦いの一番の功労者だと賞賛しました。また、一度は殺すつもりの覚悟ですらいた井伊直政に対して康政は、家康公の心の内を知る『心友』と心を許し、どちらかが死んだらもう片方も死んでしまうだろうと言うくらい深く信頼を置きました。
 先にこの世を去ったのは、若い直政のほうだったこと、康政が身罷ったのはその2年後だと考えると、康政の心情はいかばかりだったでしょうか。

 晩年、既に頂いていた館林十万石から、水戸二十五万石への加増の話を、康政は断りました。

 『大臣権を争ふは国家の利にあらず』

 家臣が権力争いをしては国のためにならない。晩年は心静かに過ごしたようです。

 榊原康政はその高い志と情熱、怜悧な理性で、徳川家、ひいては江戸幕府の創成期を支える要となりました。

 大河ドラマ『おんな城主直虎』では、榊原康政は後半に登場して、家康公の側近くで秘書のように活躍し、家臣が皆で酒宴をしているときも、緊急の事態に備えて酒を口にしない、という史実の康政のイメージを生かした、常に冷静で理知的な役付けでした。

 このたびの大河ドラマでは、榊原康政は序盤から登場しそうな雰囲気です。もしかしたら、大樹寺での修行時代も描かれるかもしれません。榊原康政の活躍を見られる日を、心から楽しみにしています。

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文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。

写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterを中心に活動中。

この記事で紹介されたスポット

岡崎公園

康生町 城、自然

自然・公園

TEL : 0564242204

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徳川四天王像 榊原康政像

康生通南 徳川四天王像、榊原康政

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