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[ 歴史・石碑 ]

2022.11.21

【どうする家康★記念連載】第五回 厭離穢土欣求浄土 家康公、岡崎への帰還

令和5年度大河ドラマ『どうする家康』の情報が届き始めたこの頃ですが、『どうする家康★記念連載』ではその放送を記念して、生誕地である岡崎で、家康公と三河武士ゆかりのエピソードを連載していきます。


 前回は幼き竹千代、つまり、幼少期の家康公を書きました。今回は成長し青年となった家康公が、懐かしい岡崎に帰還、独立するまでの物語を綴ります。

 徳川家がまだ松平と名乗っていた頃、東は大国、駿河の今川氏、西は尾張の織田氏に挟まれて、生き残るためにどちらかの勢力に入ることを迫られました。
徳川がどちらに着いたのかは諸説ありますが、幼き竹千代は、8歳(満年齢で6歳)の頃、人質に出されることが決まります。まずは尾張の織田氏に。そして、今川氏が生け捕りにした織田信広(織田信長の兄)と交換する形で、竹千代は駿河の駿府へ送られました。

 人質として、辛い臣従の日々を送ったと思われがちな竹千代ですが、駿府での少年期には奔放なエピソードが残っています。
今川の重鎮たちの前で立ち小便、鷹狩に憧れ、モズを鷹の代わりにしようとしてもうまく行かず癇癪を起こし、親しい小姓を蹴り落とした。河原で石合戦をする子供たちを見学して講釈をした等、伸び伸びと屈託なく育っていたようです。

 京の流行や文化を敏感に取り入れた、当時の大都会・駿府で、今川家のブレーンである太原雪斎を師と仰ぎ、教養を磨いて、今川義元の保護下で元服、『松平元信』と名乗ります。16歳で初陣を飾り、偉大な祖父・清康から一字を頂き、『元康』と改名。妻に今川一門の令嬢・築山御前を迎えて一男一女を賜り、順風満帆なエリートコースを歩み出していました。

【まとめ記事】徳川家康公の物語 (家康公の生誕地・愛知県岡崎市)

(写真は、撤退する元康が、馬に水を飲ませたという御所清水)

 今川のホープだった若き家康公・松平元康の運命を変えたのは、桶狭間の戦い。
 今川義元率いる今川軍が、織田氏の領地である尾張に侵攻したこの戦いで、元康は、この戦いで初陣を逢えた本多忠勝らと共に、敵である織田兵に包囲された大高城に、救援物資を届けるというとても難しい任務を果たしました。
 あとは、本隊の今川軍1万5千が到着するのを待つばかり……そこで、まさかの知らせが届きます。

 今川義元 討死。

 本当に義元が戦死したのならば、大高城は敵である織田軍の真っ只中。すぐに攻められてしまうでしょう。
 若き元康は慎重でした。即時撤退を求める家臣たちをなだめ、確実な情報を手に入れようとします。情報戦も戦いのうち。誤報に踊らされてはならないという慎重さとともに、どこかで、主君である今川義元の死を信じたくない気持ちもあったかもしれません。

 しかし、叔父である織田側の武将・水野信元から、今川義元の死は確実であり、早く大高城から撤退するようにと連絡を受け、ついに松平軍は撤退を決意します。

(写真は長瀬八幡宮 境内には松平清康を祀った社もある)

 勝ちに乗じた織田軍や、敗残兵を狙う夜盗の追撃を逃れるために、一行は岡崎を目指しました。その行程、20kmほど。しかし、岡崎城の手前、矢作川はひどく増水して、渡ることができません。今川軍を敗北に導いたという暴風雨は、元康の進路をも阻みました。
 ぐずぐずしていれば、織田軍の追撃を受けてしまいます。困り果てる一向。
 その時、矢作川の西岸、長瀬八幡宮の森から鹿の親子が現れ、川の浅瀬を上手に渡り、向こう岸までたどり着きました。
 それを見た、家臣の石川数正は号令をかけます。

「鹿は八幡大菩薩の化身である。鹿に続け!」

 石川数正は知っていたのかもしれません。かつて、長瀬八幡宮の神使の鹿が矢作川に現れた伝説があること、そして、長瀬八幡宮には家康公の祖父である松平清康が祭られていることを。

 この鹿が出現した場所は、『鹿ヶ松』と呼ばれ、かつて家康公がお手植えした松があったそうです。現在、記念碑のそばには6代目の松が植樹されています。
 また、この神の使いの鹿にはバリエーションがあり、川向こうの八剣神社に祈ったところ鹿が現れた、伊賀八幡宮が一頭の鹿を遣わしたなど、多くの神が、家康公の危機を救おうとしてくれています。


 八幡大菩薩の加護のもと、矢作川を無事に渡った元康一行は、松平氏の菩提寺・大樹寺に逃げ込みました。故郷の岡崎城は、まだ今川の将兵が守っていて、無断で入ることは許されなかったからです。
 しかし、寺の門の外には大量の敵兵が攻め寄せました。焦った元康は、総門(現在の大樹寺小学校正門)から、無謀にもひとりで討って出ようとしました。しかし、門は開きません。閂(かんぬき)という木の棒でしっかり押さえられていたからです。頭に血が上った元康は、「開門!開門!」と叫びながら、かんぬきに切りつけたものの、門は開きませんでした。

「もはやこれまで」と観念した元康は、寺の奥に引き返しました。大樹寺の最も北側には、元康の先祖である、松平八代の墓所があります。若くして亡くなった父や、尊敬する祖父の墓もそこにありました。
破れかぶれになった元康は、御家を守れなかった不甲斐なさを嘆き、腹を切って父祖に詫びようと覚悟したのです。

 そこへ現れたのは、この大樹寺の僧侶で後に13代住職となる、登誉天室上人でした。
 登誉上人は元康に「厭離穢土欣求浄土」の教えを諭しました。「苦悩で汚れたこの世を離れたいと願い、平和な極楽浄土を求めよ」。仏典、往生要集の中の言葉です。
戦いで常に誰かが苦しんでいる穢土を、戦いのない浄土のような世の中に変えるためにいま、先祖の前で捨てたはずの命。一度死んで生まれ変わったと思い、生きねばならない。

 登誉上人の教えで、元康は自ら命を絶つことを諦めました。
 この時、強く胸に響いた、「厭離穢土欣求浄土」の言葉を、家康公は終生座右の銘とし、戦いの時には徳川の目印である旗印としたのです。

https://pokelocal.jp/article.php?article=979

 さて、寡兵の元康軍に対して、寺を取り巻く敵兵は多数。
 そこに立ち上がったのは大樹寺の僧侶たちでした。寺と元康を救うために、命をかけて敵兵に戦いを挑み、ついには撃退した、といいます。
 特に祖道という僧は、7尺(約210cm)という長身で、70人力という怪力の持ち主で、総門のかんぬきを引き抜き武器としたとも、六角棒を振り回して敵兵を圧倒したとも伝わっています。

 家康公が敵兵の前に飛び出すことを阻み、祖道上人が振り回したともいう総門のかんぬきは、今も立志開運の「貫木神」として大方丈に祀られています。

 この元康を守る戦いのため、大樹寺の多くの僧は戦死しました。彼らをはじめ、この戦いの戦没者を供養したのが、大樹寺の北、西光寺にある『大衆塚』です。
 岡崎市指定文化財である、石造の阿弥陀如来坐像は、戦国の時代に奪われたたくさんの魂を慰めるように、静かに佇んでいます。

 激しい戦いから一夜明け、大樹寺の元康たちのもとに届いたのは、元康が不在の間に岡崎在城の今川の武将が、撤退したという知らせでした。

「捨てた城ならば入ろう」

こうして元康は、懐かしい生まれ故郷、岡崎城へ帰還したのです。

 岡崎公園にあるたくさんの家康公像のうち、花時計の南側にある騎馬像は『松平元康像』といいます。
 ほぼ10年ぶりに岡崎に帰還し、新しい志を胸に岡崎城に入場した、若き家康公の喜びと不安を抱いた姿を現しているのです。

 こうして、若き家康公・松平元康は、今川義元が桶狭間で討たれたあとの危機と絶望を振り切り、大樹寺で『厭離穢土欣求浄土』の志を授かり、泰平の世を目指す若き武将としての一歩を踏み出しました。

 大河ドラマ『どうする家康』においては、大樹寺の登誉天室上人のキャストが既に発表されているため、この大樹寺での出来事がドラマ上で再現される可能性が高いでしょう。
 もしかしたら、ドラマ最初の「どうする?」は、この大樹寺のエピソードかもしれません。

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