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[ 歴史・石碑 ]
2023.02.24
【どうする家康★記念連載】第六回 三河一向一揆とはなにか 家康公の危機!三河武士の大分裂【前編】
大河ドラマ『どうする家康』皆様はお楽しみでしょうか。
初回より、私たちの暮らす岡崎市や西三河を中心にしたエリアが舞台となり、日々心を弾ませています。
さて、2月後半より、ドラマは永禄6年『三河一向一揆』をテーマに扱うことになります。
三河一向一揆とは、当時岡崎城に在城した家康公と、その領地である西三河地方の浄土真宗本願寺派の寺院を中心とする【反家康勢力】との内乱を指します。
三河一向一揆の発端と原因、その結末について、今回の前編と次回の後編の2回に分けて語っていきたいと思います。
19歳で岡崎に帰還し、岡崎城主として独立した松平元康(家康公)。
しばらくは今川氏の元で戦いましたが、今川氏真の動向に不信感を抱き、信頼する家臣、酒井忠次の勧めもあり、叔父である水野信元の仲介のもと、尾張の織田信長と同盟締結。この時に結んだ織田家との同盟は、信長の死後まで守られ続けました。
父や祖父を供養するため、随念寺、松應寺、広忠寺を建立。
それまで名乗っていた『元康』から、今川義元の『元』の字を捨て、『家康』に改名。これより『松平家康』と名乗ります。
そして、今川に捕虜として取られていた築山御前(瀬名姫)と二人の子供を、交渉術で取り戻し、東三河の今川勢力との戦いに明け暮れる頃、発生したのが、のちに家康公の三大危機に数えられる『三河一向一揆』でした。
三河の浄土真宗信仰と一向宗
三河一向一揆を起こしたのは、岡崎を中心とする浄土真宗の寺院を中心とする勢力です。
『一向衆』とは、当時の浄土真宗本願寺派の門徒のことを指す言葉で、僧だけでなく、武士、商人、農民など、寺を中心に集まった、様々な階級の民衆が含まれました。
この西三河一帯は、かつて浄土真宗の始祖である親鸞上人、中興の祖・蓮如上人が自ら布教に訪れたこともあり、浄土真宗信仰が熱心な土地柄でした。
戦争が続く苦しい時代、今は苦しくとも、阿弥陀如来が救って下さる……と解釈できる思想は、広く民衆に受け入れられました。
なかでも、土呂の本宗寺、佐々木の上宮寺、針崎の勝鬘寺、野寺の本證寺(安城市)は、三河の真宗寺院の中心として、今川統治時代から『守護不入権』を獲得していました。
これは、寺とその周辺の町や田畑を、堀と土塁で囲いこんだ寺独自の土地とする『寺内』として、領主への年貢や兵役を免除された、治外法権のような特権でした。
このため、寺を中心とする寺内町の住人は、農工商の充実した、周囲の土地よりも裕福な生活を送っていました。
一向宗と岡崎の松平家の対立、三河一向一揆のはじまり
三河の支配権をめぐる相次ぐ戦争が続き、財政が厳しい松平家とその家臣は、この寺内町からも年貢や兵を取るべき、と考えました。
不入権は領主が変わるごとに発行し直すものでしたが、家康公が今川から独立した後は、それぞれの寺とはまだ、その約束を取り交わしていなかったのです。
対して一向衆寺院側は、家康公の父・広忠の発行した不入権は、当然、後継者の家康公も守るだろうと考えていました。
ある日、佐々木の上宮寺(岡崎市 上佐々木町)に、松平家の家臣が押し入り、年貢の取り立てとして、積み上げられていた米俵を奪うという事件が起こります。寺側は激怒。米を奪い返すための乱闘が起こりました。
同じ頃、野寺の本證寺(安城市)でも、寺の権利を巡って松平家臣との衝突が発生。
これらの件で家康公側の対応に不満が爆発した四つの寺院は、「家康撃つべし」と号令を発し、兵を上げました。
これまでの家康公の台頭を快く思っていなかった、三河の在地領主たちも便乗。三河の統治権を問う、三河一向一揆の勃発です。
三河家臣団の分裂
家康公の家臣たちには、熱心な浄土真宗門徒も大勢いました。今の主君である若き家康公と、先祖代々の付き合いのある寺。忠誠と信仰のどちらかを選ぶ苦渋の選択をそれぞれ迫られます。
家康公家臣の筆頭格で、特に熱心な門徒で有名だった石川家のなかで、石川数正はあえて忠誠を選び、家康公につきました。
真宗門徒だったという本多忠勝は浄土宗に改宗しましたが、数多くの本多家のなかには真宗門徒もいました。
三河上野城(豊橋市上郷町)城主である酒井将監忠尚は、以前から家康公に背反の動きを見せていたのですが、この争いに一向一揆が重なることとなり、酒井忠次は同族(叔父という説もある)との戦いとなりました。
その酒井忠尚の配下だった榊原清政には弟がいて、近年家康公に出仕をはじめ、この上野城攻めで初陣となりました。
後に徳川四天王の一人となる榊原康政の初めての戦は、かつての主家、実の兄が属する軍勢との戦いだったのです。
家康公に協力した真宗寺院
また、寺院の中でも、満性寺、妙源寺など浄土真宗でも高田派の寺院は、家康公に全面的に協力しました。また、本願寺寄りでも家康公に協力した寺院もあります。
このことは、三河一向一揆が西三河の地権争いであることを表しています。
満性寺(岡崎市菅生町)には、戦のあと伴も連れず一騎で通りかかった家康公にお茶を捧げ、住職自らなぎなたを持って、岡崎城まで送り届けたという逸話があり、これは一向一揆のときの出来事の可能性もあります。
専福寺(岡崎市伝馬町)の、当時の住職は祐欣(ゆうきん)といい、家康公より、一揆勢との和睦をとりつぐように依頼されましたが、失敗。祐欣は一時、国外に退去することになったといいます。
現在の『祐金町』という地名は、この祐欣にあやかったものなのでしょうか。
佐々木の上宮寺
永禄6(1563)年秋から始まった、一向宗と家康公率いる松平軍の対立は、翌7(1564)年正月から、各所で衝突。散発的な戦いが巻き起こりました。
上宮寺(岡崎市佐々木町)は、三河三か寺のひとつで、一向一揆の発端になったとも伝わる拠点であり、百余騎がたてこもったといいます。
かつて今川方として松平家に攻められた東条城の吉良氏、八面の荒川氏(ともに西尾市)との地理的に近く、今川家とも縁深かったという伝承もあります。
一揆の終焉後、三河を追われた住職とその子息は、別の一向一揆に参戦して命を落としました。
野寺の本證寺
三河三か寺のひとつ、国指定史跡であり、近年発掘が進む野寺の本證寺(安城市)は、広大な寺内町に、城と見紛う立派な堀と土塁を備え、一向一揆のときに撃たれたと思われる火縄銃の弾丸も出土しています。
本證寺の一向一揆当時の住職は『空誓』といい、先代が加賀一向一揆で戦死したため、19歳で本證寺に赴任、住職となりました。蓮如上人のひ孫であり、本願寺宗主家に連なる血筋の良さから、三河一向一揆のリーダー格として押し上げられることとなります。
怪力の持ち主で、自ら鎧甲を身にまとい、鉄杖を振り回して、家康公側に味方する水野信元の軍勢と戦ったという英雄的伝承を持つ空誓上人。
しかし、一揆側が劣勢となるなか、本證寺のすぐ側で、水野信元率いる軍勢との戦いが起こります。この戦いで一揆側は敗北。僧侶・順正が自ら空誓を名乗り、身代わりとして自決することで、勝利した水野軍は引き上げ、空誓の命は助かりました。
今年の大河ドラマでは、話を分かりやすくするため、様々な出来事や戦いを、この本證寺一か所に集約して描いています。
鳩ヶ窟と家康公を助けた人々
本證寺の戦いのあと、この三河一向一揆の戦いのなかで、家康公側が大きく敗北する戦いが起こります。
家康公側の偵察隊が針崎に向かう途中、蜂屋半之丞、筧助太夫、渡辺守綱という一向一揆側の猛将の待ち伏せにあい、家康公側の武将の何人もが首を取られる大敗北を喫しました。
山中八幡宮(舞木町)には、三河一向一揆の際に追われた家康公が身を隠したという言い伝えのある洞窟が、現在も残されています。
追っ手の一向宗が、家康公の隠れたこの洞窟を覗いたところ、八幡宮の使いの二羽の鳩が飛び出したことから、「臆病な鳩がいるなら中に人はいないだろう」と追っ手が去ったというのですが、地元では、家康公を救ったのは実は鳩ではなく、近くに住むふたりの村人だった……と伝わっているのだそうです。
こうして、寺と領主、双方の権力争いからはじまり、三河武士の結束を揺るがす同じ西三河の民同士の戦いは、一向宗、家康公、双方ともに疲弊していきます。
この、無益な戦いがどう決着するのか。
その顛末は後編で語ろうと思います。
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詳細
文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。
写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterで活動中。