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[ 歴史・石碑 ]

2023.03.03

【どうする家康★記念連載】第七回 三河一向一揆【後編】一揆の終焉 この危機をどうした!?家康公

大河ドラマ『どうする家康』で扱われる、私たちの暮らす岡崎市や西三河を二分した内乱、『三河一向一揆』。


三河一向一揆とは、当時岡崎城に在城した家康公と、その領地である西三河地方の一向宗と呼ばれた寺院勢力を中心とした【反家康勢力】との内乱を指します。

前回、第六回の連載で、三河一向一揆の発端と原因について書いてきました。今回の後編では、その結末と、三河の浄土真宗のその後について語っていきたいと思います。



西三河に深く浸透した浄土真宗、その中でも一向宗と呼ばれた一大勢力が持つ多大な特権階級を巡って始まった三河一向一揆に、浄土真宗の信者でもない、家康公と松平家の台頭に反発する武士たちが蜂起するという、家康公vs反家康公勢力の争いとなりました。
浄土真宗のお寺と縁の深い家康公の家臣のなかには、寺に味方する者も少なくなく、家康公は、東に今川氏という敵を抱えながら、自分のお膝元である西三河に火がついた、とても危険な立場となりました。

【まとめ記事】徳川家康公の物語 (家康公の生誕地・愛知県岡崎市)

上野城の抵抗と酒井将監

上野城の抵抗と酒井将監

三河一向一揆では、一向宗寺院だけでなく、家康公に反発する武士たちも敵となりました。
その拠点のひとつ、上野城(愛知県豊田市)城主の酒井将監忠尚は、徳川四天王のひとり酒井忠次の叔父とも兄とも言われ、松平家の重要な家臣でしたが、繰り返す国境争いの中で独立勢力となり、松平家と戦うことになります。
三河一向一揆の始まる前より挙兵して、一向一揆の和睦後も最後まで抵抗を続けたのが、この上野城の酒井将監でした。

のちに徳川四天王となる榊原康政の兄・榊原清政は、この酒井将監の配下であり、一向一揆のときは上野城を守っていたと推測されます。
そして、榊原康政の初陣はこの上野城攻め。一向一揆は、兄弟同士が戦ういくさになりました。

また、晩年まで家康公のブレーンとして活躍した本多正信とその一族も、三河一向一揆の時はこの上野城を防衛していました。
上野城が敗北すると、本多正信は出奔。加賀の一向一揆に参戦したとも、松永久秀の配下になったとも諸説ありますが、家康公のもとに帰った時期ははっきりしません。

勝鬘寺の勇士 渡辺守綱と蜂屋半之丞

勝鬘寺の勇士 渡辺守綱と蜂屋半之丞

針崎の勝鬘寺(しょうまんじ)は、現在は岡崎小学校のすぐ近くにあります。激戦のあった古戦場として、石碑も残されています。

『槍の半蔵』と讃えられ、家康公と、その子義直の家臣として徳川を守った勇将、渡辺守綱は、一向一揆の際には一向宗側につきました。しかし、家康公側の弓の名手、内藤正成の矢によって、父である渡辺高綱を失ってしまいます。
勝鬘寺の墓地には、この渡辺高綱の死を悼む慰霊碑があります。

守綱の親友で、同じく徳川十六神将のひとり蜂谷半之丞貞次も、勝鬘寺に籠もり奮戦したといいます。この蜂谷半之丞は猛将でありながら、家康公本人が出てくると槍を納め、決して戦おうとしなかったといいます。

最前線 大久保一族の上和田城

最前線 大久保一族の上和田城

この勝鬘寺に、最も近い家康公側の拠点は、大久保一族の守る上和田城でした。
現在の上和田公民館付近がその城跡となりますが、宅地開発が進み、遺構などは残っていません。

徳川十六神将に選ばれた大久保忠世・忠佐の兄弟。歳の離れた弟で、のちに三河物語を執筆し、『彦左』として講談や時代劇に名を馳せた大久保彦左衛門忠教は、この大久保氏の出身です。
彦左は自著『三河物語』で、一向一揆での大久保一族の活躍を、まるで見てきたかのような鮮烈な筆致で描いています。


上和田城のすぐ北には、浄珠院という浄土宗の寺院があります。松平家との関係性がとても深く、現在は県道で分断されていますが、当時は隣り合っていたようです。一向門徒に攻められ上和田城が危機になると、浄珠院が鐘を鳴らして、岡崎城へと知らせたそうです。
その鐘を聞きつけた家康公は、伴も連れず単騎で駆けつけ、上和田の兵たちを驚かせ、勇気づけました。

土屋長吉と夏目吉信

土屋長吉と夏目吉信

上和田城に押し寄せた一向宗の中には、家康公のもと家臣で、本郷(岡崎市矢作町)の出身だった土屋重治という武将もいました。
土屋重治は、もとの主である家康公が危機に陥っていることに耐えられず、「これより我が殿にお味方する!」と突然一向宗から離反して、家康公を守るために奮戦。それにより家康公は危機を免れましたが、土屋重治は討死。家康公はその死をとても嘆いたといいます。
上和田公民館には、この土屋長吉の顕彰碑があります。

家康公の家臣だった夏目吉信(広次とも)は、一揆側につき、野場城(幸田町)に立てこもりましたが、深溝松平伊忠に攻められ陥落。
この際、家康公から、『夏目の命は助けよ』と指示が出たことで、夏目吉信は命を助けられます。
ことを深く感謝して、のちの三方ヶ原の戦いで、家康公の身代わりとなり公を救い、討死することになります。


立場の違いで敵味方となった三河武士たちも、決して相手が憎くて戦った訳ではないのです。

和睦への道

和睦への道

三河一向一揆は約半年間続いたと言われますが、激しい戦いは永禄6年12月から、翌年の永禄7年1月に集中しています。負けが続き、一向宗の精神的な中心地であった土呂の本宗寺を焼かれた一揆側の消耗は激しく、一揆側の蜂屋半之丞貞次は、親族である大久保氏に、和議の交渉を打診します。

上和田城の近く、浄珠院の太子堂の前で、蜂谷半之丞たち一向宗の武士たちと、家康公をはじめとする三河武士たちが、和睦の交渉をしたと言われています。
この際に一揆側は、3つの条件を提示しました。

一揆に組した者の本領安堵せらるべきこと

一揆の張本人の一命助けられるべきこと

寺々の僧俗どもにもとの如く立ておかるべきこと


一揆に参加した武士たちの土地や権利を取り上げない、一揆の首謀者の命を助ける、一向宗の寺と権利は『もとのまま』にしておく。
これを和睦の条件としました。

浄珠院の和睦と一向一揆の終結

浄珠院の和睦と一向一揆の終結

家康公はこのうち、戦争の責任として、一揆の張本人の処刑は絶対だと主張して、この和睦案に激怒。
馬に飛び乗り、一揆衆を打ち倒すため出陣しようとしました。
驚いた浄珠院の住職と、大久保氏の長老、大久保忠俊(常源)が、右と左から馬のはみ(馬の口につけた金具)を押さえ、必死に家康公を止めたといいます。

大久保忠俊は『御手をひろく広げなされば』……両手を広げ、心を広く持ってください、と若き家康公を説得します。
見知ったもの同士が、ふるさと三河を戦場に殺し合うこの内乱を、一日でも早く終わらせたかったのは、家康公側の家臣たちも同じでした。

家康公はしぶしぶ承諾して、一揆側に大きく譲歩したことで、和睦は成立します。
浄珠院の太子堂の前で、一揆勢の代表者と家康公側は、停戦の約束を交わし、半年にわたる三河一向一揆は終焉しました。

妙春尼(妙西尼、芳春院とも)は、熱心な真宗門徒であり、於大の方の姉妹で家康公の叔母にあたります。三河での真宗禁止に心を痛め、長年、甥である家康公に働きかけました。
一揆の20年後の天正11年(1583)家康公より、この妙春尼を代表として、真宗の宗教活動が許可されます。
困難を乗り越えた西三河の浄土真宗信仰は、より強固なものとなります。
信仰の火を再び灯した妙春尼の墓(供養塔)は、上宮寺、本宗寺(土呂より美合町に移転)の2か所に見ることができます。


さて、半年間にわたる三河一向一揆は収束しましたが、この戦いは誰が勝ったのでしょう。
戦闘結果だけ見れば、ほぼ家康公側の勝利に見えます。
これは、一揆側の拠点同士が連携できなかったこと、家康公の部下だった門徒武士のなかに、蜂屋半之丞や土屋重治のように、戦いたくなかった者がいたことも原因です。

しかし、家康公は和議に際して、一揆側の要求を不本意ながら受け入れることになりました。これは家康公の敗北ともいえます。
また、このとき一揆側にいた家康公の家臣のなかには、そのまま三河を離れ、家康公の元から去るものもいました。

和議が結ばれたあと、家康公は「寺を元の通りにする」と言って、寺が建つ前の野原に戻すためと、寺を全て壊してしまいました。

ひどい話ですが、これにより、加賀や長島の一向一揆のように何十年も戦い、一揆衆を皆殺しにするようなむごい結果にはなりませんでした。

家康公の苦悩に満ちた決断により、三河一向一揆はどこよりも早く終わり、これより東西三河を統一する戦いが始まるのです。

<前編>【どうする家康★記念連載】第六回 三河一向一揆とはなにか 家康公の危機!三河武士の大分裂

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文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。

写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterで活動中。

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