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[ 歴史・石碑 ]

2022.07.28

【どうする家康★記念連載】第三回 家康公は岡崎城のどこで生まれたのか知っていますか

令和5年度大河ドラマ『どうする家康』の情報が届き始めたこの頃ですが、『どうする家康★記念連載』ではその放送を記念して、生誕地である岡崎で、家康公と三河武士ゆかりのエピソードを連載していきます。

第三回の今回は、ついに家康公の生誕に迫ってみましょう。
尾張の織田と駿府の今川の争いに巻き込まれた戦国乱世に産声を上げた家康公。
さて、徳川家康は岡崎生まれ、というのは岡崎の人の誇りであり、岡崎市民なら誰でも知っていると言っても過言ではないのですが、岡崎のどこで生まれたのか。
これも、岡崎の人ならば『岡崎城』と答えられる方が多いと思います。
それでは、岡崎城のどこで生まれたのか?
ここまで突き詰めると、知っている人はぐっと減るのではないでしょうか。
岡崎のあちこちにある家康公の言い伝えの中から、まずは岡崎公園周辺から、家康公生誕の日に想いを馳せてみましょう。

【まとめ記事】徳川家康公の物語 (家康公の生誕地・愛知県岡崎市)

家康公、幼名・竹千代が生誕したのは、天文14年12月26日。
暦では、寅年寅の日寅の刻に当たることから、『寅童子』(とらどうじ)という異名もあります。日本画の決め事として、竹と虎はセットで描くものという背景も考えると、実に洒落たネーミングです。

家康公が生誕したその日、誕生を祝うかのように、天守に近い井戸から『金鱗の龍が舞い上がった』と伝えられています。
この井戸は『龍ケ井』と呼ばれ、西郷弾正が岡崎城の前身となる砦をこの地に築いた頃、この井戸に住まう龍神が、清らかな乙女の姿で現れ、祀られたという伝承があります。
龍神は水の神。矢作川と乙川の沖積地であるこの一帯の水の恵みを、龍神の恩恵と考えたものでしょうか。

この龍ヶ井は、岡崎城の天守が建てられた頃には、天守と連結する井戸櫓の中にあったのですが、現在は建物よりも外、天守と龍城神社の間に見ることができ、側の祠には今でも龍神が祀られています。

さて、家康公がどこで生まれたのか?という疑問。
この答えは、もうひとつの井戸にあります。

岡崎公園・二の丸能楽堂の裏の坂道を降って、伊賀川方向に向かえば、そこには立派な石造りの『家康公産湯の井戸』があります。
その名の通り、竹千代が取り上げられ、最初に浸かった産湯をくんだ井戸として伝わったものです。
今では井戸の底に水は見えないのですが、すぐ側で、この産湯の井戸の水を地下から汲み上げているので、是非とも触れてみてください。

さて、産湯の井戸でくんだ水は、どこに運ばれたのでしょうか。
竹千代は『坂谷邸』で生まれたと記されています。岡崎城の古図を見ると、坂谷曲輪と呼ばれた一帯は、本丸(天守周辺)と二の丸(能楽堂から家康館周辺)の西側の、1段下がった南北に長い敷地に当たります。
産湯の井戸から南を見回すと、数メートル先の木々の根の間に、ポツリと小さな石碑が見つけられるはずです。
『坂谷邸跡』と書かれたこの石碑が、まさしく坂谷屋敷の場所。今では建物も形跡も残されてはいませんが、ここが、200年以上戦争が起こらない平和な江戸社会を築く家康公が、最初に産声を上げた場所だったのです。

貴人が生まれたという伝承地には、えな塚と呼ばれる塚があります。『えな』とは胎盤などの、後産と通称されるものを指し、胎児と一緒に出てくるそれらは、本人の分身のように扱われ、健やかに育つようにと願いを込めて、手厚く扱われたと言います。そして、後の歴史に名を残した人物のえな塚は、その誕生を物語るモニュメントとなりました。

家康公のえな塚は、天守から坂を降りた西側、伊賀川のほとりにあります。先程の産湯の井戸や坂谷邸跡からも近く、川べりの穏やかな風景は、金色の西日に照らされる頃には、最も美しく輝きます。

ちなみに、本来のえな塚は写真中央、えな塚と書かれた石柱のとなりの丸くて地味な石。そして、場所も本丸にあったのだそうです。

竹千代の誕生は、ただちに神仏へも伝えられました。

名鉄東岡崎駅の北側、明大寺町の六所神社は、家康公の祖父・松平清康が勧請した神社で、かつて岡崎城があった場所の程近くです。そのため、岡崎城の土地神であり、岡崎城で生誕した竹千代の産土神となります。
竹千代誕生の翌日には、城より使者が送られ、六所の神に竹千代誕生が報告されました。

現在、12月の末に開催される『家康公生誕祭』のイベントのひとつとして、この生誕報告の儀式を模した竹千代行列が行われ、父・広忠や母・於大の方、竹千代の乳母などに扮した人々が、六所神社から岡崎公園の龍城神社まで練り歩きます。

家康公が誕生した頃、西は尾張の織田信秀(信長の父)、東は今川義元がそれぞれの勢力を拡大し、その勢力がぶつかる三河の各所で合戦となりました。
百年近くに及ぶ戦国時代と通称される時期のちょうど真っ只中、15歳で岡崎城主となった若き松平広忠と、14歳の於大の方との間に誕生した竹千代、のちの家康公は、戦いにつぐ多々の中で希望の光のような存在だったのでしょう。
金色の昇竜伝説や、数々の儀式は、誕生の喜びやその健やかな成長を祈る、人々の願いを感じます。そして、その願いに応えるように、竹千代、のちの家康公は、すくすくとのびやかに成長していくのです。

そして時は過ぎ、幕藩体制が終わると、岡崎城は城としての機能を失い、町に取り込まれていきます。町名を持たない元岡崎城の中枢部に、明治5年(8年とも)名付けられたのは『康生町』。家康が生まれた町、という名でした。
江戸幕府が倒れ明治政府が樹立した後でも、岡崎の人達はここで竹千代……徳川家康が誕生したということを何よりも誇りに思っていたことが、この名から伝わってきます。


大河ドラマの『どうする家康』では、幼少の頃はあまり描かれないかもしれません。
しかし、この地に残った伝承を思う時、乱世に現れた一縷の希望と、後の英雄となる幼子への憧憬と、なによりこの岡崎と徳川家康という人を心から愛した気持ちを感じることができます。

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文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。

写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterを中心に活動中。

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