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[ 歴史・石碑 ]
2023.01.13
【徳川四天王物語①】戦国最強と呼び声の高い名槍の使い手「本多忠勝(ほんだただかつ)」
康生の新しいランドマーク、桜城橋。そのすぐ北側の『天下の道』に設置された戦国武将の石像は、徳川四天王と呼ばれた家康公の最も重要な家臣たちです。
この記事は、corin『まちかど歴史話』として掲載された徳川四天王の特集記事を加筆再編集してお送りします。
さて、今回取り上げるのは、徳川四天王のひとり、本多忠勝。
鹿角の兜と銘槍・蜻蛉切をトレードマークに、人生五十七回の戦において一度も傷つかず、戦国最強の名をほしいままにした三河武士の生きざまと、この岡崎との深いつながりを考えてみたいと思います。
徳川四天王と呼ばれる武将のうち、岡崎市と最も縁があるのは本多忠勝でしょう。
生まれも岡崎であり、江戸時代には子孫が岡崎藩主となり幕末を迎えたことから、岡崎公園にも銅像が作られています。
平八郎の通称で有名な本多忠勝は、西蔵前城(岡崎市西蔵前町)で生誕したといいます。家康公より6歳年下で、同じ徳川四天王の榊原康政と同年です。幼名は鍋之助。
しかし幼少の頃、安城合戦で父・本多忠高が戦死。
父を亡くした忠勝を後見した、叔父の本多忠真の居城の欠城があったという岡崎東公園には、現在、忠勝の子孫の邸宅であった・旧本多忠次邸が移築再建されていることに、不思議な縁を感じます。
その後、洞城(洞町)を預かり、岡崎城黒門内(岡崎公園駐車場入口付近)に屋敷を構え、徳川家の本拠地が浜松城に移るまで、拠点を現在の岡崎市内に置いています。
妙源寺(岡崎市大和町)で学問を修めた忠勝は、そこに預けられていた女性(名は『乙女』と通称される)と結ばれ、側室として迎えます。
ふたりの間には後に稲姫(小松姫)が誕生するのですが、武家の家長が幼馴染と恋愛結婚したと残されている、戦国時代には珍しい出来事です。
さて、戦国武将として有名な本多忠勝。大河ドラマにも過去61作品中12作品に出演、63作『どうする家康』で13回目の登場と、なかなかの活躍ぶり。近年では、家康行列にも登場した藤岡弘、さんの雄姿が印象的です。
ただ、ドラマ等で気になるのが、武勇の人というイメージが高じて猪武者として描かれやすいことです。これは、『五十七度の戦において傷を負わなかった』という逸話や、天下三名槍のひとつ蜻蛉切の使い手、姉川の戦いで単騎敵陣に乗り込み、太郎太刀を振う猛将・真柄直隆と一騎打ちした逸話などの印象からでしょう。
愛槍『蜻蛉切』は、天下三名槍のひとつに数えられ、三河の刀匠、田原(藤原)正真によって鍛えられた美しい槍で、甲冑『黒糸威胴丸具足/鹿角脇立兜』とともに、忠勝を象徴するアイテムとして、ドラマやゲームなどに描かれています。
岡崎では2020年に、備前屋(伝馬町)より生洋菓子『蜻蛉切』のクレープロールとエクレアが販売され、人気を博しています。
他にも、国宝『中務正宗』や伝・一文字などが、忠勝所用の名刀です。
しかし、忠勝はただの武辺一辺倒ではありません。
忠勝の武功の中で有名な一言坂の戦いは、元亀三年(1572)浜松を居城としていた家康公と、西上する武田信玄との戦いです。そして、この戦いは、徳川軍の退却戦、つまり負け戦なのです。
天竜川を渡って偵察に向かった徳川軍は、武田の大軍と接触、そのまま突発的な戦いが始まりました。
浜松城へ退却する徳川軍は、一言坂(静岡県磐田市)で武田軍に追いつかれます。家康公の窮地というその時、忠勝はしんがり、最後尾を名乗り出ました。
自ら槍を振るい敵陣に攻め入り、敵がひるんだところで撤退。退却と反撃を指揮して、味方を一騎も欠くことなく脱出したそうです。
その奮戦ぶりは敵である武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛されました。
『天下の道』の本多忠勝像は、この一言坂の戦いの時の姿。大勢を見通す判断力と度胸、そして常に冷静沈着な忠勝の雄姿です。
その素質を、織田信長や豊臣秀吉ら天下人から賞賛されつつ、家臣として家康公に忠節を尽くし、姉川の戦い、小牧・長久手の戦いなど数々の誉を打ち立てました。
徳川の本拠が江戸に移ると、まずは大多喜10万石を預かり、後に桑名初代藩主となりました。
東海道の要衝である桑名では、慶長の町割と言われる城下町を形成、後の桑名発展の基礎を作りました。また、
関ヶ原の戦いでも、井伊直政とともに交渉に従事し、戦う前から徳川を優勢に導いています。そして本戦では軍監として、わずか500騎の兵を従え参戦。名馬・三国黒を失うほどの激しい戦を勝ち抜きました。
時は下って江戸時代、明和六年(1769)忠勝の子孫は本多家は岡崎に移封。それから六代、100年近く本多家は岡崎藩主をつとめ、幕末を迎えました。岡崎市の二代目の市長は本多家のご子孫になります。
明治になって岡崎城が廃城となった後、本丸にあった忠勝を祀る『英世神社』と、三の丸にあった家康公を祀る『東照宮』は合祀され、現在岡崎公園内にある龍城神社となりました。そのため、龍城神社の祭神は、本多忠勝・徳川家康両公とされ、忠勝の武勲にあやかり、勝負運の神様とされています。
慶長15年(1610)、本多忠勝は六十三年の生涯を終えます。徳川四天王のなかで最も遅くに訪れた死でした。
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という。」
本多家の家訓として伝えられた遺言です。
西岸寺(康生通南)は、本多家の菩提寺として、転封のたびに本多家に従って移され、廃藩置県をこの岡崎で迎えて、ここに定住しました。 岡崎空襲で建物のほとんどを失ってしまいましたが、忠勝の位牌は奇跡的に難をのがれ、大切に伝えられました。
現在の西岸寺があるのは、中央緑道『天下の道』の傍ら。忠勝の魂はそこから、この平和になった岡崎の街を見つめています。
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詳細
文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
家康公と三河武士をこよなく愛する歴史マニア。岡崎の歴史遺産をご案内する観光ガイド『岡崎歴史かたり人』として、日々街の魅力や歴史の面白さを、熱く語っています。
写真 / けろっと氏
カメラと歴史とロックとコーヒーを愛する生粋の岡崎人。Twitterを中心に活動中。