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[ 歴史・石碑 ]
2023.07.03
築山殿と信康ゆかりのスポット・周辺の神社仏閣巡り
大河ドラマ『どうする家康』でも大きく取り上げられた、家康公の正室・築山殿(瀬名)と、嫡男・岡崎三郎信康。
ふたりがその生涯の多くを過ごした岡崎の地には、その悲しい最期を悼むように、ゆかりの寺社が点在しています。
この記事では、ふたりのゆかりの地を巡る旅のお手伝いになるように、スポットを紹介していきます。
【おすすめ順路】
岡崎公園(大河ドラマ館)を起点として
地蔵院⇒岡崎天満宮⇒祐傳寺⇒若宮八幡宮⇒根石寺(根石観音堂)⇒八柱神社
⇒(岡崎天満宮で御朱印の授与)
記事の一番下には、ルートナビ付きのマップもありますので、位置情報をONにして『WEBガイド』としてご利用ください。
地蔵院
地蔵院
岡崎三十六地蔵 第13番札所
もとは、家康公の父の菩提を弔う松應寺の塔頭(大きな寺が管理した関連寺院)で、築山殿を供養した塚があったと言われる寺です。
築山殿の塚にあった地蔵菩薩の首が、ある日、落ちてしまったのだそうです。
老尼僧が念仏を唱えて支えたところ、地蔵の首が不思議な力でつながったことから、「首切り地蔵菩薩」と呼ばれました(現在は秘仏)
その後、寺の前の道路を広げた際に塚は削られ、現在は失われてしまいました。
岡崎城に最も近い供養所です。
築山殿の屋敷と築山稲荷
桜城橋から籠田公園につながる『天下の道』。
勇ましい徳川四天王石像が守るすぐ北側の康生二丁目、現在の康生郵便局からNTTビルのあたりが、かつて総持尼寺と築山稲荷という寺社があり、『築山』と呼ばれていた土地でした。
その西側、現在の西岸寺のあたりに屋敷を構えたことから、『築山殿』と呼ばれたのでしょう。
総持尼寺と築山稲荷は大正時代に移転して、現在は岡崎市中町にあります。築山の地と築山稲荷については、詳しくは以下の記事をご覧下さい。
【あわせて読みたい】瀬名姫が「築山御前」と呼ばれる由来となった「築山」とはどこか -築山稲荷と総持尼寺-
祐傳寺
築山殿の首が、最初に埋葬された地です。
佐鳴湖畔で斬られた築山殿の首は、織田家に送られ、岡崎へと差し戻されたと伝わります。
築山殿の首は岡崎城からほど近い祐傳寺に埋葬され、その後、築山殿を祭神とする築山神明宮という神社も創建されました。
江戸時代になって、岡崎城下の拡張に伴い、神社と塚は、欠町の八柱神社に移築されました。
現在は、首塚とともにあった供養塔と思われる、宝篋印塔が残っています。
側の小さな二つの石塔は、伴として殉死した築山殿に仕えたふたりの侍女のものでしょう。
若宮八幡宮
二股城で自刃した信康の首は岡崎に戻され、石川和正が、信康の信仰が厚かった、当時の根石原観音堂の横に埋葬しました。
その後、付近でたたりを思わせる怪異が続いたため、近くの名栗天神を首塚の横に移築、信康を神として合祀し、若宮八幡宮としました。
江戸後期の絵図を見ると、若宮八幡宮、首塚、根石原観音堂がひとつの場所にあった様子がわかります。
拝殿でお参りしたあと、拝殿に向かって右側にある透塀の窓を覗くと、本殿の側に佇む岡崎三郎信康の首塚を見ることができます。
立派な五輪塔に目を取られがちですが、その前(本殿側)にある自然石こそが、当時の首塚そのものだということです。
根石寺(根石観音堂)
もともとは、現在の若宮八幡宮のある位置、本殿のすぐ東側にあり、江戸時代の絵図にはひとつの聖地として、若宮八幡宮、首塚、根石観音堂がひとまとめに描かれています。
本尊の聖観音像は信康の信仰が厚く、初陣の際には、ここで勝利祈願をしたといいます。
その縁もあり、信康の首塚をつくりその魂を弔う場所に選ばれたのでしょう。
その後、明治時代になると、神仏分離令で、神社と寺院を分けなければいけないことになりました。
結果、若宮八幡宮と首塚は元の位置に残り、根石観音堂だけが東海道二十七曲り沿いに移設され、根石寺として現在の位置に収まりました。
八柱神社
江戸時代、岡崎城下の市街化のため、築山神明宮と築山殿の首塚が移されることとなり、
欠町の八柱神社に移転されました。
築山神明宮は八柱神社に合祀され、祭神には築山殿の名もあります。
築山殿の首塚は、社殿の西側の林のなかにあり、社殿からは案内看板に従えば迷わずたどり着けます。
後方の大きな石の五輪塔は供養塔で、手前にある地味な自然石が、移築された首塚となります。
御朱印とゆかりの寺社巡り
若宮八幡宮と八柱神社の御朱印は、宮司を兼務されている岡崎天満宮で授与して頂けます。先に若宮八幡宮と八柱神社に参拝されてから、岡崎天満宮を参拝し、授与所で申し出て下さい。
築山殿と信康は、ともに駿府の産まれであり、亡くなられたのは佐鳴湖畔に二俣城と、岡崎からは遠い場所にあります。
しかし、そのみしるしを埋葬し、非業の最後を迎えた魂を慰めようと選ばれたのは、この岡崎の地でした。
築山殿はその生涯の半分をこの岡崎の築山で、信康は岡崎城主として長くこの地に生き、通称も岡崎三郎とされています。
まだ、築山殿が稀代の悪女のイメージが強かった頃、私はひとりでこの信康、築山殿関連の寺社を巡っていました。
当時は案内看板も少なく、八柱神社で首塚を見つけられずにうろうろと探していると、近くにお住まいという愛犬の散歩中の御婦人が、首塚まで案内して下さいました。
「この人は悪い人だって言われてるけど、そんなことわからないよね。歴史には詳しくないけど、可哀想な人なんだよね」
「家康さんに嫌われてたっていうけど、それもわからない。でも私たちはずっとこのお墓を大事に思っていて」
「お参りしてくれてありがとうね。近くに息子さんのお墓もあるからね、ぜひお参りしてあげて。きっと喜ぶよ」
岡崎三郎信康と築山殿への祈りは、時や場所を越えて、今を生きるひとりひとりの心の中にあるんだなと感じたひとときでした。
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詳細
ここに紹介したこれらの寺社は、観光地ではなく、住宅街のなかにひっそりとたたずんでいます。
生活されている周囲の方に配慮しつつ、敬意をもってお参り下さると幸いです。
文 / 岡崎歴史かたり人の歴女
写真 / けろっと氏